2010年3月28日日曜日

伊秩城跡・その2

伊秩城跡(いじちじょうあと)・その2

◆解説(参考文献「佐田町誌」等)
 前稿(その1)の続きとして、今稿は山口県の伊秩本家に残された、伊秩城落城の記録を中心に取り上げたい。なお、伊秩城が最終的に落城したのは天正7年(1579)となっているが、今回とりあげるものでは、天正2年の話である。
【写真左】伊秩城遠望その1
 東麓の神戸川を挟んで国道184号線から見たもの





 その前に、この時期の尼子方と毛利方の状況を見てみると、天正6年(1578)、尼子再興を目指した山中鹿助らは、播磨上月城に拠って、毛利軍の攻撃に耐えたが、7月同城は落城、尼子勝久は自害し、同月17日、山中鹿助は捕らえられ、護送中備中国の阿井の河原で殺害されてている。

 そうした状況も踏まえて考えると、このころ、出雲部はほぼ毛利方の手中に収まっていたと考えるのが一般的だが、伊秩城のみが、この時期(天正7年)まで、毛利方と争っていたということになる。
【写真左】伊秩城遠望その2
 同じく国道184号線の南側からみたもの







 尼子再興軍は、山中鹿助が事実上の司令塔になって動いてきたわけであるので、本人がこのころ出雲に在任していなかったにも関わらず、伊秩城・伊秩氏がこの佐田の山奥で一人孤軍奮闘していたことになる。

 さて、前置きが長くなったが、落城時の挿話として、記録されたものだが、佐田町誌によれば、
 「毛利氏に憚ってか、同家では秘書として他見を許さなかったが、伊秩本家・伊秩秀宜氏の好意によって、転載する
 とある。原文は漢文のため、佐田町誌において意訳している。

“時は天正2年(1574)3月、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・穂井田元清の連合軍は、伊秩城攻略のため軍を起こした。

 これを察知した甲斐守元苗は、弟の源左衛門久正を伯耆の大山に落とし、末弟を僧として玄房と名づけて赤穴に、また長女(当時16歳、後に熊谷信直の家中に嫁がす)と、妻の二人を石見浜田に落として、弟の元忠と共に籠城したのである。
【写真左】伊秩城登城口と伊秩城
 この写真は2007年12月に訪れた時のもので、手前の道路などは工事が行われていた。駐車場は写真の手前広場。
 登城路は整備されている。




 しかしながら、尼子の勢力はとみに衰えているので、他からの救援は全く望まれず、善戦するものの、寡は衆に敵せず、5月某日攻撃軍の猛攻により、城はまさに落ちようとしていた。
 討死の覚悟を定め、最後の出撃をしようとした元忠を、甲斐守元苗は、急ぎ召し返して
 「自分は当主であるから、討死するのは当然のことだ。もし仮に逃れることができたとしても、将来多病のため、再び家を興す力はない。それでは多くの人から辱めを受けるから、この際討死したいと思う。
 お前も討死すれば家が絶えることになるから、先祖に対してこの上もない不幸となる。苦しかろうが、ここを脱出して、後に時を得て、家を再興せよ。それが最大の孝というものだ。それができないようなら、弟とも思わぬし、兄とも思うな。」
【写真左】本丸方面手前の郭付近
 この場所には石碑などが建立されている。なお、伊秩城の東西は険阻な切崖となっており、特に東麓からはほとんど攻め入ることは困難な形状となっている。




 と諭した。元忠は
 「兄の死を見て逃れるのは、義ではありませんが、申しつけのことは、天に誓って固く守り、家の再興に力を尽くします。もし、成就しないとしたら、それは天命です」
 と答えたので、甲斐守は大いに喜んだ。そうしている間に「敵は二の丸門を打ち破って乱入した」との注進を受けた甲斐守は、元忠の脱出を促し
 「家中の者に、元忠を助けて落ちさせるものあらば、第一の忠義の者とする」
 と言ったので、5騎の騎馬武者は、馬の首を立てなおした。元忠は、涙ながらに暇乞いをして搦手の門から落ちて行った。甲斐守は、最早これまでと覚悟を決め、城に火を放ち僅かに残るものと共に大手門に打って出て、壮絶な最期を遂げた。

 元忠の脱出の時、随った者は、松野茂助(子孫・小野村に住む)、熊野(子孫・金屋町に住む)、江本(同住勝筈)、布勢、勝原住(住安養寺)などの18人であったという。

 元忠は、後に毛利氏の旗下・穂井田元清に召出され、備中神戸村6千石を受け、安房守を名乗ったが、慶長3年3月20日、京都で病没。享年65歳。京都建仁寺門大通院の南化大和尚が導師となった(建仁寺過去帳・南化全集)。”



 前段でも示したように、この落城期の挿話とされている時期が、天正2年(1574)となっている点は、前稿で示した時期(天正7年)と異なる。
 また、その他細かな点で差異が認められるが、これを整理する知見もないので、紹介のみとしておきたい。

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