2010年3月8日月曜日

大友宗麟墓地(大分県津久見市大字津久見字ミウチ)

大友宗麟墓地(おおともそうりんぼち)

●所在地 大分県津久見市大字津久見字ミウチ
●探訪日 2008年12月3日

◆解説
 臼杵城のある臼杵市からさらに南下し、津久見市に入ると、佐伯津久見線(日向街道・36号線)がある。ここから少し西に入ったところに大友宗麟の墓地がある。

 墓地手前には、津久見高校や津久見小学校などがあり、住宅地の奥に設置されている。道が狭く、不定形な住宅団地の中を通っていくため、少し戸惑うが、ところどころに標識があるのでそれを頼りにすれば、たどり着ける。

 墓地公園そのものは駐車場も広く取ってあり、地元市民の憩いの場も兼ねた公園のようだ。
【写真左】宗麟の銅像と、説明板の碑










現地の説明板より、転載する。

“大友宗麟は享禄3年(1530)府内(大分市)の大友館で生まれ、父義鑑の横死のあとを受けて天文19年(1550)弱冠21歳で、戦国時代の真只中に大友氏21代の城主となった。

 その後、内は統治に意を用い、外は武威を張り豊前・豊後・筑前筑後・肥前肥後の6カ国と日向伊豫の各半分を領し、勢威九州を圧し大友の最盛期を築いた。

 城主となった翌年宗麟は、日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルを迎えて教旨を聴き、大いに心服し、以後キリスト教を庇護したため、信者は日毎に増え府内には西欧文化が絢爛と栄えた。

 天正6年(1578)神父カブラルから洗礼を受け経名をフランシスコをした。天正10年(1582)には、キリシタン大名大村・有馬と共に少年使節をローマに派遣した。

 しかし、天正14年(1586)島津と戦って破れ、翌年豊臣秀吉の島津討伐があったが既に疲労甚だしく、天正15年(1587)5月23日、津久見の住居で聖者の如く浄く帰天した。時に58歳であった。

 葬儀は神父たちによって盛大に行われ、墓もキリスト教式に建てられたが、宗麟の死後僅か1ヶ月の後、秀吉が突如耶蘇教禁令を発布したため、嫡子義統は仏式の墓に取り替えた。その墓も荒廃し200年後の寛政年間に臼杵の旧族臼杵城豊が、堂宇を新築し新しい墓をこれに納めたのが現在の墓である。
【写真左】堂宇と思われる
 宗麟がキリスト教に入信する前は、大友氏は代々禅宗である臨済宗を崇敬し、宗麟自身も京都から大徳寺瑞峯院の怡雲禅師を招き、修禅に励んだ。

 当初宗麟はキリスト教と同宗両派を信心したため、宣教師たちは困惑したという。

 洗礼を受ける前、宗麟は同師から戒名「瑞峯院殿瑞峯宗麟大居士」も授けられている。おそらくこの堂宇にその戒名が刻銘されていると思われるが、判読が困難。
 

 しかしその堂宇も破滅し、見るに堪えないので、このたび石田秀夫津久見市長、木下郁前県知事、平山高高明カトリック大分司教、山本峯生県教育長と後任の矢野朔雄氏と私が、大友宗麟公顕彰会を作り、設計は斯界の権威磯崎新氏に委嘱し、経費の大部分は水族館マリーンパレスが創業14周年記念事業として負担した。

昭和52年9月  大友宗麟公顕彰会代表
         ㈱マリーンパレス社長  上田 保”
【写真左】宗麟の墓
 磯崎新氏の設計によるもの。なかなか斬新なデザインである。






【写真左】墓地公園内
 モミジなどがたくさん植えられている。

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