2010年3月10日水曜日

長宗我部信親の墓・戸次河原合戦(大分県大分市中戸次)

長宗我部信親の墓・十河一族の碑
(ちょうそかべのぶちかのはか・そごういちぞくのひ)
戸次河原合戦
(へつぎかわらかっせん)

●所在地 大分県大分市中戸次・竹中)
●探訪日 2008年12月4日

◆解説
 大分市の東部に流れる大野川の旧名は、戸次(へつぎ)川という。この戸次川の中流域に戸次という地名があり、現在国道10号線が平行して走っている。

戸次河原の合戦
 
 天正14年(1586)、この地で、大友義統(宗麟の子)および秀吉から派遣された四国勢である長宗我部信親、十河一族の連合軍と、怒涛の勢いで北上してきた島津軍との壮絶な戦いがあった。

 この戦いで、長宗我部元親の最愛の息子・信親は悲運の死を遂げることになる。
【写真左】「長宗我部信親の墓・十河一族の碑」入口付近
 右に見える道は、東部の臼杵市方面から国道10号線に繋がり、大分市方面に向かう枝線で、この位置から500m奥に向かうと、10号線と接する。

 写真の案内板には、当該墓・碑の案内があり、ここから歩いて100mほどの地点にある。なお、上段の文字は「戸次本町の町並み」まで1.8キロの表示。


 現地には長宗我部信親の墓、十河一族の碑が建立されている。以下現地の説明板より転載する。

“1586年(天正14)11月下旬、薩摩(鹿児島県)の島津家久が2万の軍勢を率いて豊後(大分県)に侵入してきました。鶴賀城の城主利光宗魚(そうぎょ)は、兵700を含む老若男女3000と共に島津軍に激しく抵抗しました。

 しかし、城は包囲され宗魚は討死しました。知らせを受け、豊臣秀吉が豊後に派遣した長宗我部元親・信親(土佐・高知県)、十河存保(そごうまさやす)仙石秀久(讃岐・香川県)の軍勢が、大友義統(よしむね・22代)の軍勢と合流、大友・四国連合軍6000が鶴賀城を救援するため、鏡城に到着しました。
【写真左】鎧塚
 戦士を祀ったと思われる石祠









 12月12日朝、大友・四国連合軍は、戸次川(大野川)を渡り、山崎、脇津留、迫の口に陣を敷き、脇津留で両軍が激突、合戦が始まりました。
 島津軍先陣の伊集院久宜(ひさのぶ)は、一旦脇津留から利光まで兵を引くと、大友・四国連合軍はこれを追撃しました。

 すると繁みや土手にいた伏兵に鉄砲で攻撃を受け、後方の島津家久と新納大善正(にいろだいぜんのしょう)に反撃され、さらに迫の口東方の本庄主税介に側面を攻撃され、島津軍のわな(釣野伏戦法・つりのぶせせんぽう)に落ちました。

 敵に囲まれる絶望的な状況の中、信親は家臣700と獅子奮迅の戦いをします。しかし刀の刃は欠け、鎧はちぎれついに力尽き、家臣全員とともに22歳の短い生涯を終えました。
【写真左】墓所全景
 この区域全体が墓所公園のような造りになっている。写真はアップしていないが、「鶴賀城戸次河原合戦之碑」や仁王像のようなもの、また数十体の地蔵が並べられている。



 大友・四国連合軍は中津留まで押し込まれ、総崩れとなり府内に退却しました。この戦いを「戸次河原の合戦」といい、両軍併せて2000人以上もの死者を出しました。

 信親は島津氏によって山崎に葬られ、のちに元親が遣わした僧により、荼毘にふされました。持ち帰られた信親の遺骨と遺品を見て、元親やその家臣たちは悲しみのあまり涙したといいます。”


長宗我部信親(1565~1586)

 長宗我部元親の長男。1575年織田信長から「信」の字を与えられ、「信親」と名乗るようになりました。背の高さは6尺1寸(約184cm)と長身で、色は白く礼儀正しく、家臣には分け隔てなく接し、領民には常に情けをかけるなど、人々から慕われていたと伝えられています。
 元親にとって期待の息子でした。”
【写真左】長宗我部信親の墓その1






【写真左】長宗我部元親の墓その2
 よくある五輪塔や、宝篋印塔の形式のものでなく、 幅広い円柱型のものとなっている。







【写真左】戸次河原の合戦要図
 地図が細かいため読みづらいが、同図をクリックすると拡大できるので、多少は配置が確認できると思われる。上方が北になり、大分市側になる。






【写真左】鶴賀城縄張図
 上記図の下方にあるが、この縄張図を見ると、遺構の種類や個所が多いようだ。
 なお、鏡城の縄張図はこの場所には明示されていない。








鶴賀城

 日向国(宮崎県)から府内および臼杵へ向かう交通の要衝地に築かれた城で、土塁や堀切、畝状空堀で敵の侵入を防いでいます。

 フロイスの『日本史』に「利光と称するキリシタン貴人の城」とあり、城主利光宗魚は、キリスト教徒であったことがうかがえます。”



【写真左】同墓地から南方に、鶴賀城を遠望する。
 おそらく写真右の山だろうと思われる。








四国霊場33番札所・高福山 雪蹊寺(せっけいじ)の長宗我部信親の墓

 ところで、長宗我部信親の墓は彼の領地・土佐にも建立されている。
【写真左】高知市長浜にある雪渓寺の山門









 場所は、高知市桂浜に近い四国霊場33番札所・雪渓寺境内にある。

 当院は、延暦年間弘法大師が高福寺として開基し、その後鎌倉時代には、運慶と湛慶の作になる毘沙門天の仏像などが安置されたことにより、慶雲寺と改称される。

 戦国時代になると、信親の父、すなわち元親の菩提寺となり、彼の法号にちんなんで、雪渓寺と改称された。

 雪渓寺境内の最深部にあるが、ここには信親はじめ部下の供養塔も祀られている。
【写真左】長宗我部信親の墓
 この墓は宝篋印塔形式のものである。
 なお、蛇足ながら、この写真背後の山は長浜城跡で、戦国期、本山梅慶の子・茂辰の支城で、大窪美作守が城主だった。

 永禄3年5月26日、長宗我部国親(元親の父)が、奇襲し攻略した。


 ここには信親の討死の原因を次のように記している。

“天正14年(1586)12月12日、豊後の国(大分県)戸次川畔で薩摩の島津義久の大軍と対峙しましたが、四国勢の主将・仙石秀久の無謀な渡河作戦のため、対岸に控えていた5千の島津軍の伏兵により、仙石勢は敗走しました。

 信親以下土佐勢は、踏みとどまって奮戦しましたが、衆寡(しゅうか)敵せず、700余人と共に22歳を一期として戦死しました。”

◎関連投稿
十河城(香川県高松市十川東町)

2 件のコメント:

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    1. babys breath様
       コメントありがとうございます。ご先祖が鏡城の城主とのこと。

       鏡城に関する資料は全く所持しておりませんが、戸次川の戦いの際、秀吉軍などが軍議を開いた場所となっています。件の戦いの際、陣所としてその時新たに造ったものでないことは想像できます。おそらく大友氏の麾下に入っていた一族のものだったでしょう。

       このあたりは、戦国前期には臼杵氏・萬田氏・田北氏などが中世支配しており、鏡城との関わりもあったものと思われます。

       なお、サイト「城郭放浪記」さんの写真を見る限り、明確な遺構はあまり残っていないようですが、当時は状況から考えて、鶴賀城の支城的役割をもった城砦だったのでしょう。

       今後ともご笑覧のほどお願いします。
       
      トミー拝

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