2010年2月1日月曜日

馬の山砦(鳥取県東伯郡湯梨浜町大字上橋津)

馬の山砦跡(うまのやまとりであと)

●所在地 鳥取県東伯郡湯梨浜町大字上橋津
●探訪日 2008年2月29日
●標高 106.9m

◆解説(参考文献「続・因伯大名の戦国時代」中村忠文著等)
 今稿は山城ではないが、伯耆戦国史の中でも重要な位置づけとなった砦である。所在地は、前稿「羽衣石城」と同じ湯梨浜町にあり東郷湖から日本海にそそぐ橋津川の東方の丘陵地である。
 この丘陵地の西端の小山が馬の山で、馬ノ山の対陣」と呼ばれたところである。現在、この付近全体は整備さされて、伯耆ロマンの里「ハワイ・馬ノ山公園」という公園になっている。
【写真左】馬の山砦と御冠山遠望
 東郷湖の西岸から見たもので、湖岸付近には下段にしめす写真入りの説明板が設置されている。(2013年2月撮影)
【写真左】馬の山の対峙






 説明板より

“馬の山の対峙
 羽柴秀吉は天正9年(1582)、織田信長の命により、中国攻めの軍を進めて鳥取城を陥落させ、つづいて羽衣石の南條元続を救援するため、伯耆に進出して御冠山に布陣した。
 一方、毛利側の吉川元春の軍は、馬の山に来ており、このため双方がにらみ合うことになった。
 このときの秀吉軍の兵力は3万とも4万5千とも6万ともいわれるが、迎え撃つ元春の軍勢はわずか6千であった。
 元春は大軍を迎えても動揺せず、橋津川の橋をことごとく落とし、備えていた数百の船はすべて陸に上げ、櫓は残らず折り捨てて背水の陣を敷いた。そのため、秀吉は元春の覚悟のほどを知り、戦わずして軍を引き上げた。
 また、元春も馬の山の陣をたたんで出雲に引き上げていった。秀吉、元春の両雄は、互いにその器量を認め合い、戦わずして別れたのである。
  湯梨浜町教育委員会”

【写真左】馬の山遠望

【写真左】御冠山遠望












【写真左】馬の山公園にある下段説明板設置場所付近






上段のものと重複するが、紹介しておく。

現地の説明板より


馬ノ山の対陣
 馬ノ山は羽柴秀吉軍と対戦するために、吉川元春が陣取ったところである。秀吉は天正9年(1581)10月25日に鳥取城を陥落させ、ついで羽衣石城の南条元続救済のため、伯耆に進出し、御冠山に布陣して馬ノ山の元春軍と対峙した。
 秀吉軍の兵力は6万、迎え撃つ元春軍は6,000であったが、大軍を迎えても動ぜず、橋津川の橋をことごとく落とし、備えていた数百の船はすべて陸上に引き上げ、橋は残らず折り捨てて背水の陣を敷いた。
【写真左】土塁跡
 説明板にもあるように、土塁が多く残っている。ただ、公園化した時、道路周辺の改修も行われているので、紛らわしい個所が多い。

 後段の説明にもあるように、吉川元春が馬の山にたどり着いたのはかなり前からと思われる。というのも「背水の陣」をするための時間的な余裕がなければ、こうした土塁の施工もできないからだ。
 
 秀吉は元春の覚悟のほどを知り、戦わずして軍を引き揚げ、元春軍も馬ノ山を開陣し、出雲に引き上げたという。秀吉・元春の両雄は互いにその器量を認め合い、戦わずして別れたのである。もし戦っていたとすれば、その後の日本の歴史は変わったものとなったかもしれない。”

【写真左】同説明板にある当時の陣営配置図
 文字がだいぶ薄れていて読みにくいが、この中で、実際に元春が常時在陣していたといわれているのが、馬ノ山より西方で、東郷湖より数キロ西にそびえる茶臼山だったといわれている。





 天正8年、9年と二度にわたる秀吉の鳥取城攻めにより、同城は開城し城主吉川経家は自刃した。鳥取城が開城したのは、天正9年10月26(又は25日)日とされている。このころ、鳥取城への援軍として向かっていた吉川元春がいた場所が、今回取り上げる馬の山である。

 経家の自刃の報は、いち早く元春の耳に入り、やがて秀吉らが鳥取から西へ進んでいくものと察知し、元春はこの馬の山で秀吉らの大軍を迎え撃つべく、文字通り背水の陣を構えた。秀吉方は、この馬の山東方にある御冠山(みかむりやま:186.3m)に陣を構えた。鳥取から当山まで案内役を務めたのが、前稿「羽衣石城」主である南条氏だった。南条氏は一時毛利方に与したが、途中から秀吉方に恭順した。
【写真左】馬ノ山周辺その1
 公園化されているため、当時の砦形状ははっきりしないが、今でもかなり起伏のとんだ丘陵である。天然の要害としても相当効果があったと、元春は考えていたのではないだろうか。




 10月28日、南条元続・小鴨元清は、吉川軍が討って出るものと判断し、先ず藤堂高虎、中村一氏、神子田甚右衛門、亀井茲矩らがその先鋒となった。
 しかし、吉川勢が全く動かない。これを見た秀吉は「小勢を侮るな、今はその時期でない」とたしなめ、蜂須賀小六もそれに同調した。こうして翌日も迎えたが、結局秀吉は戦わずして御冠山をあとにしていった。

【写真左】東方の御冠山方面を見る
 現在は樹木があるため、秀吉が布陣した御冠山方面は直接望めないが、当時は十分にみえたものと思われる。
【写真左】馬の山から南方の羽衣石城を見る
 写真の中央やや左の手前の山並みに羽衣石城が確認できる。

 東郷湖は当時はもう少し大きかったものと思われ、実際の戦となれば、陸上戦と、舟戦の混在した形になったものと思われる。おそらく、舟戦となったら村上水軍を擁する毛利方が優勢になったかもしれない。

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