2009年11月28日土曜日

楪城(岡山県新見市上市)

楪城(ゆずりはじょう)

●探訪日  2008年4月16日
●所在地 岡山県新見市上市
●築城期 南北朝時代ごろ(鎌倉期とも)
●築城主 新見氏または杠(ゆずりは)氏
●標高 490m、比高200~240m
●遺構 本丸、二の丸、花の丸、三の丸、堀切その他

◆解説(参考:『歴史散歩 岡山の城』富阪晃著、『岡山の山城を歩く』森本基嗣著、その他)
 楪城は備北地方では、松山城に次ぐ規模のものだという。
【写真左】楪城遠望(2012年10月21日撮影)
 南側の国道180号線から見たもの。







 登城のきっかけは偶然で、当日(昨年:2008年4月16日)鳥取県の江尾城を探訪したあと、国道180号線をそのまま岡山県側に入っていったところ、ちょうど左にカーブする手前で、山の頂部が少し開けたものが見えたことからだった。そのあと道路右側に小さい看板で「楪城入口」の文字が見えたたため、少雨だったものの、そこから谷間の道を入って行った。

 舗装はされてはいるものの、延々と急坂の登城路で結構しんどい思いをして上がったが、最初に見た「武者走り」付近からの景色で、いっぺんに疲れが吹き飛んだような感動を覚えている。
【写真左】登城口付近
 180号線から西の方に入る谷があり、途中からさらに下の方に下がると、写真のような集落が見える。この個所に数台駐車できるスペースがある。写真は登城口から少し登り始めた位置から下の方を見たもの。



 新見市付近は南北朝時代、新見荘として東寺(京都)領荘園だった。伝承では、東寺から派遣された代官・祐清(ゆうせい)と地元の惣追捕使・福本盛吉の妹「たまかき」との悲恋物語が残っているという。

 築城者を新見氏とする説と、楪(杠)氏とする説の二つがある。
『新見庄・生きている中世』という史料では、杠氏が築城したものの、同氏は守護で鎌倉在住が多く、守護代の新見氏が新見を治めていたからだという推測をしている。

その後の経緯については省略するが、現在の楪城の全容が形成されたのは、永禄9年(1566)ごろ、横領した三村氏が尼子の攻撃に備え大拡張したときだといわれている。その折には、当城の南1キロ地点に「対(たい)の城」を設け、周辺には朝倉城、粒根城、竹野城、角尾城、鳶ヶ巣城などを配置した。

 しかし、それまで関係を結んでいた毛利氏との関係が悪くなり、「備中兵乱」が起きると、天正2年(1574)11月、毛利軍2万に包囲され、しかも三村氏内での裏切りもあり、翌天正3年正月8日落城した。

【写真左】登城口付近に設置された案内板と登城路
 数年前まではあまり整備されていなかったらしく、こうした簡易舗装のものではなかったようだ。
 「楪城を守る会」「新見市教育委員会」によって整備されたという。




 なお、杠氏については源平合戦の時代、相模国の三浦党・三浦六郎重行が摂津国峯に居住したとき杠氏を称したといわれている。

重行は備中守護に任じられ、最初は「矢谷城(同地名)」と命名してたが、のちに「杠城」と呼ぶようになったという。

 15代・286年も同地杠氏は続いたが、惟久の時代の文明4年(1472)、松山城に拠った上野広長に滅ぼされている。

 なお、このことから、単純な計算をすると、重行が新見庄に入部したのは、1186年(文治2年)となる。この年は源頼朝が、義経追討の宣旨を出し、義経が平泉・藤原秀衡の元に逃れた年である。入部してすぐに築城したかどうかは確定できないが、築城の初期が鎌倉期であったことは、ほぼ間違いないだろう。

出雲の小池氏

 ところで、今年2009年6月の投稿で「小国城(島根県奥出雲町)」を取り上げた際、同地奥出雲(横田)において、三沢氏と非常に深い関係のあった一族に小池氏がいることを紹介した。この小池氏は江戸期になると、突然「杠氏」を名乗るようになる。


 杠城のある新見上市と奥出雲町・横田までは直線距離で60キロ前後ある。180号線から少し北に行くと、奥出雲方面に向かう「新見多里線」があり、思った以上に短時間でたどり着ける。

 文明4年上野氏に滅ぼされた杠氏の一部が、この奥出雲の三沢氏を頼って、一時的に「小池姓」を名乗り、その後始祖である「杠氏」を再び名乗ったのではないかとも思えるが、どうだろう。
【写真左】本丸入口付近
 本丸へ登る坂道付近







 現地説明板より

本丸
 本丸は標高490mの所にあり、4つの壇から成る。3の壇が主郭になっており、新見氏の時代に築城された古い時代の郭である。北東側面の一部は野面積みに石が積んである。また、要所も石によって補強されている。


 本丸各壇の西辺下には、幅約1~6mほどの南北を貫く武者走りが見られ、その中央において南西へ突き出した花の丸と通じている。
 なお、本丸は連郭式山城の中心で城主の館がおかれ、戦いの場合本陣となった。”
【写真左】本丸
 御覧のようにかなり広い。










【写真左】本丸から「花の丸」を見る









説明板より


花(端)の丸
 本丸から南西に突き出した郭で、守城のとき敵を誘い込んだ捨て郭であったかもしれない。


「天正3年(1575)正月8日巳の刻(午前10時)ごろ、に、冨家大炊助・曽祢内蔵・八田主馬以下の者が的に寝返り、敵兵を諸丸に引き入れ端の丸に火をかけた。」(「備中兵乱記」より)”


 写真の左側の突き出した部分で、中央手前が高くなっている。
【写真左】帯曲輪その1
 本丸側から二の丸方面を見たもの 現地の説明板より



“二つの郭を連絡するために、その間に細長く設けられた郭で、楪城では本丸と二の丸を幅約11m、長さ約80mの郭で結んでいる。


また、中ほどには櫓の基壇も見られる。二の丸からの連絡がすぐでき易く、このような大規模なものは例がない”

【写真左】帯曲輪その2
 二の丸から本丸方面をみたもの










【写真左】二の丸







 現地説明板より


二の丸
 三村氏の時代に築城されたものと思われ、5つの壇から成る。南側の麓には大きな堀切がある。


二の丸は本丸を守るための郭であり、楪城では一番高い所にある。敵の偵察的要素が強く、見晴らしのよい所につくられた。


そのための小屋が置かれていたと思われる。 なお、本丸とは大きく長い約80mの帯郭で結ばれている。”


【写真左】二の丸側面 本丸ほどではないが、この場所もひろい。








【写真左】二の丸付近
 この日は雨が降っていたことや、夕方近くでもあったため、二の丸までしか探訪していない。縄張り図では、この先に堀切や三の丸などがあるが、機会があったらこれらも踏破してみたいものだ。








【写真左】本丸付近から城下を見る
 この写真はおそらく、北側の方と思われる。中央の川は高梁川。 









【写真左】本丸付近からみた周辺の集落
 谷を隔てた向かい側の山麓にあるが、この集落の位置もかなり高い所にある。





 備後・備中・美作方面を探訪するたびに思うのは、平地部に住んでいる者からみると、こうした標高の高い位置に集落があること自体に驚きを感じる。


 急峻な谷底に集落を築くと、洪水や崩落の危険性があるから、自然とこうした場所に定住していったものだろうが、もうひとつは、鎌倉期などに入植した諸族の自己防衛上の観点(地取り)から、こうした場所に定住するようになってきたものかもしれない。


 その結果、当時の国人層や小豪族の末裔が、数百年にわたってこうして集落を形成し、今日まで生き残ってきてたわけである。そう考えると、山城の有無とは別に、これだけでも中世の歴史探訪としての価値を感じるのだが。

2009年11月24日火曜日

軽尾城(岡山県高梁市備中町西油野)

軽尾城(かるおじょう)

●所在地 岡山県高梁市備中町西油野
●探訪日 2009年11月16日
●高さ 580/比高300m前後
●築城期 不明
●城主 天竺三郎四郎元氏
●遺構 郭その他

◆解説(参考:『江府町史』、『城格放浪記』など)
 今月15日の投稿・鳥取県日野郡江府町の「美女石城」を取り上げた際、この城について言及している。

 城主である天竺氏については、当地備中地方の史料には出ているかもしれないが、手元にはそうしたものがないため、詳細は分からない。
 しかし、『江府町史』によると、「美女石城」の城主であったということや、同氏が天正10年(1582)ごろに、元々の居城であった備中・軽尾城に戻っているという記録と、その3年後(天正13年付)、美女石城下の佐川神社に寄進をしているという記録が残っている。

 常識的に考えると、天正10年に備中油野を地元としていた者が、3年後に再び伯耆国へ戻って、社殿の造営や、社領の寄進をすることは現実的には考えられない。従って、天竺氏が備中・軽尾城に完全に帰ったのは、寄進した年、すなわち天正13年と思える。

 というのも、この年(天正13年)は、6月に織田信長が本能寺の変で亡くなり、秀吉は急いで毛利方と和議を結んでいる。その後毛利一族は9月になると、伯耆大山寺を大改修している。このことから、天竺氏も毛利氏と同一の行動(戦後処理)をとっていたのではないだろうか。
【写真左】軽尾城位置図
 写真の案内図は、「ふるさと農道」という道の展望台にあるもので、写真中央の黒い点(:管理人作成)がある付近が、軽尾城の位置。 戸構城から「農道高岩線」「県道西山布寄線」という道を通って行くと、西油野にたどり着ける(在来道か)がある。しかし、車道としては狭く、現在はその外側を迂回する「ふるさと農道」という二車線の新しい道ができており、時間的にはこの道の方が明らかに楽である。
【写真左】ふるさと農道の途中にある展望駐車場
 この位置からは西油野、平川方面の山並みが見える(下の写真参照)。
【写真左】上記展望台から南西方向の山並みを見る。
 余談ながら、この付近を含めた吉備高原の山並みを見ると、中規模な独立峰を持つ山は、ほとんどが山城ではないかと思うことがある。実際、山城でなくても、砦や物見台として多くの山が一時的にせよ、使用されたのではないだろうか。
 おそらく、この景色の中に軽尾城が入っていると思われるが、どの山系なのかはわからない。
【写真左】軽尾城遠望その1
 規模としては中規模な方だが、南北に細長い構えをしている。
 写真は南東部からみたもの。
【写真左】その2
 東麓の道を登って行ったところ、一軒の家で行き止まりになった。この場所(民有地か)は、車をUターンする広さがせまい。一つ間違うと、谷に真っ逆さまに落ちる状況だった。何とかやりくりしながら戻ることができた。
 この写真はその場所(南麓)から北方の本丸方向をみたもの。このあと、確実な登城路は、北麓から西麓に回ったほうがいいと思い、いったん戻る。

【写真左】西側の麓の道
 再度北側から西麓を通る道を進み、鞍部となったところ。この先に、以前登城路だったというところがある(後段参照)。
 ただ、このあたりはほとんど狭い道なので、対向車が来たら、反対側が険峻な谷なので、かなり焦るだろう。

【写真左】登城路といわれているところから本丸方向を見る。
 上記の位置から登城路があるというのだが、完全なブッシュ状態で、どこが入口なのか分からず、断念する。
【写真左】北側の宮に向かう参道
 上記の場所でいったんあきらめ、元の北端部まで戻り、近くにあった民家のおばさんに道を確認したところ、やはり前記した鞍部の位置からだという。
 先ほどの現地の状況のことを話したら、「私が嫁に来たころは、よく上がっていたが…」とのコメント。ウン十年前の登城路の情報、これはこれでありがたいが…。
 で、他に道はないかと尋ねたところ、北側から宮に向かう道があるが、その道はそこまでで、無理すれば本丸の下あたりまで行けるのでは、とのこと。
 これを頼りに向かった。
【写真左】途中にあった神社
 一見すると倉庫のような建物に見えるが、入口のガラス越しに「しめ縄」が見える。

【写真左】道なき道を行く
 幸い、近年植林された杉の間伐があったため、途中までは視界がきき、方向は迷うことはなかった。
 斜面を直進するのはきついため、ジグザグに回りながら登っていく。
【写真左】本丸の東下郭その1
 途中まではこの斜面に遺構が全くない。この郭段に立ってやっと山城に来たという思いを感じた。
【写真左】その2
 同上の郭を北側から南に向かって撮ったもの。 この先は御覧の通り笹竹で覆われていて先にも行けないが、おそらく腰郭だろう。ちなみに、反対側(西側)の方は傾斜がきついので、郭は存在しないと思われる。
【写真左】その3
 同郭から本丸方向を見たもの。
 当然道らしきものはないため、この斜面を無理やり登れば、本丸にたどり着くはずだ。
 ただ、ここに来るまでで、相当体力を消耗したことや、下で待っている相棒の気弱なトミー嬢が 「帰りたい?コール」を連呼したため、断念した。
◆感想
 件の地元のご婦人に、城主についてたずねたところ 、どういう城主だったかは知らない、とのこと。「天竺某」という武将の名前も、初めて聞いたとのこと。
 地元の一人から聞いただけで判断するのは早計だが、おそらく、天竺氏も当城に戻った天正13年以後、毛利氏の家臣として、九州島津氏討伐や、小田原城攻めなどに派遣され、戦地で亡くなったのかもしれない。


◎関連投稿
大津・天竺城(高知県高知市大津)

2009年11月23日月曜日

戸構城(岡山県高梁市備中町西山)

戸構城(とがまえじょう)

●所在地 岡山県高梁市備中町西山
●探訪日 2009年11月16日
●築城期 不明
●城主  不明
●遺構  なし
●備考  大己貴神社

◆解説(参考文献:『城格放浪記』等)
 中国道の広島東城ICを降りて、R182号線に入り、岡山県新見市哲西町野馳から大野部備中線(313号線)を南南東に行くと、高梁市備中町西山地区にたどり着く。この付近は成羽川が中央を横断し、広い丘陵地もあるが、谷は急峻で、幹線道路も狭い道が多い。今回はこの地区にある戸構城(呼称が不明なため「とがまえじょう」と呼ぶことにする)を取り上げる。
 当城についてはは残念ながら、ほとんど山城の遺構は残っておらず、「大己貴神社」という神社にすっかり変わってしまっている。
 備中町には、中世のころ、近江国から領家職として平川氏が入部し、領主となって「紫城」という城を築いたという記録があるが、この城はこの西山地区より南東部にある平川地区になるため、戸構城についてはほとんど資料がない。
 この近くのもう一つの山城としては、以前取り上げた伯耆(鳥取県)の江府町にある「美女石城」の城主でもあった天笠氏の居城・「軽尾城」があるが、距離的にはこの城が近いので、同氏との関連があるかもしれない。
【写真左】西山地区の中心部にある案内図
 戸構城・大己貴神社の位置は、この図のほぼ中央部にある。
 地元の案内図に掲載されているぐらいなら、「戸構城」関係の部分的な遺構や、説明板があると思っていたが、そうしたものは結局見いだせなかった。


【写真左】戸構城遠望
 登り道は2カ所あるが、現在は新たに造られた車道幅の道が一般的のようだ。
 この写真は、旧道の鳥居下からみたもの(下の写真参照)。
【写真左】鳥居側の旧参道
 しいて言えば、この周辺が改変されていない部分になる。



【写真左】現在の登り道
 中央部の石柱は「大己貴神社」の刻銘がはいったもの。
本殿下の駐車場まで道が造られてはいるが、舗装されていないので、普通車では無理がある。
【写真左】参道途中付近
 当城は小規模だったこともあり、車道を造る際、遺構がほとんど失われた感がある。車道は当山を旋回しながら登る設計になっている。

【写真左】本丸跡
 この場所には本殿が建立され、周辺境内も広くとるためか、山城の遺構を全く残さず削平、平坦地となっている。長径30m、短径20m前後の大きさ。ただ、本丸の大きさは現在とさほど変わっていないと思われるので、当時もこのくらいのものだっただろう。

2009年11月22日日曜日

千守城跡(広島県尾道市因島三庄町千守)

千守 城跡(ちもりじょうあと)

●所在地 広島県尾道市因島三庄町千守
●探訪日 2009年11月21日
●築城期 鎌倉初期
●城主  竹原小早川氏(南北朝期)、篠塚伊賀守十郎衛門貞忠
●遺構 郭4段、石垣、井戸など
●高さ 79/79m(比高)

◆解説(参考文献:サイト「尾道市・城跡マップ」等)

【写真左】因島案内図
 同島東岸を走る因島水軍スカイライン(366号線)の展望台付近にあった地図で、千守城は、この写真の中央右の位置に示されている。







●瀬戸内海の「しまなみ海道」をつなぐ島の一つ「因島」周辺には、村上水軍に関係する海城・平山城や砦形式のものを合わせると、その数は30余りになるという。一番有名なのは、観光地の一つである村上水軍城だが、これは歴史資料館として昭和58年に建てられたもので、山城ではない。

●今回訪れたのは、因島の東部備後灘を望む三庄町(みつのしょうちょう)の千守という海岸部にある城で、形態からいえば海城となるが、小規模ながら山城形式の特徴も持っている。

 本丸の高さは海抜79mとほぼ同じで、大手口は東の備後灘方面に面し、本丸を中心にして同心円状の郭4段の構成となっている。他の遺構としては井戸、石垣があるが、変わったところでは、石積みによる水槽のようなものが残っている。

 築城期は、鎌倉初期の公文所跡ともいわれ、南北朝期には竹原小早川氏が治めていたという。その後、村上水軍の大目付篠塚伊賀守十郎衛門貞忠の居城となった。
【写真左】同スカイライン側から南に千守城を見る。
 夕方の逆光で撮ったため、霞んでいるが、写真手前、町並みの後ろに立つ山である。
 なお、中央奥にかすんで見える三角形の山は、「因島公園」の天狗山(207m)である。 左の海は備後灘。




【写真左】浜の方からみた千守城遠景
 登城口は写真右の方にあるが、民家の路地のようなところを歩いていく。









【写真左】千守地区の海岸部から北方にある「一ノ城」方面を見る。
 「一ノ城」は、蒲刈小早川氏の居城で、源平合戦の時、平家方がこの城に籠城したという。
 写真の尾根中央部付近になる。






【写真左】千守城麓の駐車した付近
 この場所は左にある道(366号線)の脇に神社と境内を兼ねた駐車場があり、そこに留めた。

 なお、この位置から奥の方へまっすぐ向かうと、因島遍路札所である観音寺にたどり着く。従ってどちらかといえば、この駐車場は遍路用としての利用が多いようだ。





【写真左】千守城北側麓より本丸方向を見る
 中央部に見える建物は、因島四国第30番「安楽寺」の建物
 登城路はこの寺へ行く道と共通で、寺を過ぎると千守城のみの登城路となる。






【写真左】途中の登城道
 多少は階段部が修理してあるが、全体にあまり人も登っていないせいか、階段部の破損がある。
 小さな山城であるため、傾斜はきついものの、時間的には10分以内でたどり着く。





【写真左】本丸下の郭
 桜の木だろうか、だいぶ大きくなったものが生えている。この付近の下草は刈られている。








【写真左】本丸下の郭階段部にあった井戸跡
 中をのぞいてみたら、内側の石垣はほとんど破損はなく、今でも水がたまっているかもしれない。
 直径は1.5m程度。







【写真左】冒頭で記した「水槽」のようなもの
 上記の井戸跡付近にあったもので、側溝にしては幅、深さが大きく、しかも長さが10m程度で区切られている。そうなると側溝ではなく、何か水をためる施設だろうと思われるが、何に使ったのか分からない。馬場跡で、馬の水飲み場とも考えられる。




【写真左】本丸跡
 本丸の広さは10m四方程度で大きくはない。奥中央部に祠が祭ってあり、その左には小屋が建っている。
 この写真の右側の一部が少し盛り上がったところがあり、土塁のようにも見えるが、その奥はすぐに切崖になっていないので、何の用途か不明。
 なお、この写真の奥下段には郭段が非常にきれいに残っている。

【写真左】本丸より大手口方面見る
 上記の位置と反対側(海側)になるが、雑草が多く遺構を確認することが困難。

 ただ、同心円状に郭が巻きついた形状(帯曲輪形式)だろうという雰囲気は感じられる。
 この面を整備すると、下からの眺めが一段と良くなるような気がする。



【写真左】北西面の郭段
 郭の幅はせいぜい2,3mだが、丁寧な石積みで、保存状態が良い。










【写真左】北西山麓の家並み
 郭段最下部から下は、ミカン畑がそのままの傾斜面で繋がっており、収穫用の運搬車レールも城域直近まで伸びている。

亀山城(広島県庄原市東城町小奴可)

亀山城(かめやまじょう)

●所在地 広島県庄原市東城町小奴可
●探訪日 2009年11月16日
●築城期 平安時代
●城主 奴可入道西寂・四郎・源吾・平四郎、飯田新助、亀井武蔵守玆経、宮下野守定実・隆盛ら
●指定 庄原市史跡(昭和50年3月17日)
●別名 亀石城
●遺構 郭8カ所、堀切、土塁

◆解説(現地の説明板より)

“亀山城跡
 丘陵を利用して築かれた山城で、亀石城とも呼ばれ、本丸以下段状に郭が8カ所築かれ、いたるところに堀切や土塁がめぐらされている。西方のふもとが居館跡と伝えられ、一角に要害桜が名残りをとどめている。

 この城に関する正確な史料は現存しないが、近世の文献によると、平安時代末期には、奴可入道西寂の居城であったとされ、その後、奴可四郎・奴可源吾・奴可半四郎・飯田新助・亀井武蔵守玆経らが居城したというが明らかでない。

 戦国時代の永正年間から慶長年間までは、宮氏の一族である宮下野守定実・同隆盛・同盛常・同盛慶らのいわゆる小奴可宮氏が居城していた。

 このうち隆盛は、尼子氏に味方し毛利勢と戦い戦死するが、その子盛常は、許しを得て毛利氏の家臣となった。
   平成19年3月 庄原市教育委員会”
【写真左】314号線に設置されている看板
 城跡の東麓に設置されている。山城の紹介もあるが、どちらかというと、「要害桜」のほうが有名のようだ。



 以前紹介した五品嶽城(広島県庄原市東城町川西)の宮氏と同族の宮氏が治めていた城だが、解説にもあるように、戦国期までのところで城主がたびたび変わってきている。
 備後・備中・伯耆・出雲との境目であることから、当然めまぐるしい攻防があったことが想像される。

 場所は、314号線(東城街道)の沿道にあり、JR芸備線の小奴可駅にも近い。説明用の大きな看板が道路脇に設置されているので、すぐにわかる。

 最近になって城郭の北半分(本丸まで)の雑木が伐採され、314号線の北側からだとよく見えるが、南側から走っていると、当城の遺構は分かりにくいかもしれない。

【写真左】亀山城遠望
 上記案内図の駐車位置が分からず、そのままぐるっと亀山城の西から南まで車を回し、高台の墓地の空地に駐車してから向かった。

 当城が整備されているのは、前述したように北側で、写真でいえば左側になる。遺構は右側竹林付近も見ごたえのあるところがある。




【写真左】屋敷跡付近の段から、二の丸を見る
 屋敷跡付近は写真左側に中心部があるらしいが、手前の段にも居住用の施設があったかもしれない。




【写真左】要害桜
 この根元付近は立ち入り禁止となっている。春にはおそらく相当見事な満開の花を咲かせるだろう。







【写真左】二の丸跡
 現地には、要害桜以外にも桜の木が植えてある。おそらく毎年春には、この場所が桜の行楽客でにぎわうだろう。

 二の丸は北の方向に向かって長く伸びている。奥行きは25m前後はあるだろう。


【写真左】二の丸から本丸を見る
 二の丸から本丸の段までの高さは4m前後だが、屋敷跡地(要害桜)から二の丸までの高さは7,8mはあるかもしれない。




【写真左】本丸
 この場所もかなり広く、二の丸とさほど変わらない規模を持つ。








【写真左】本丸南端部の土塁
 高ささは2m前後はあると思われ、その反対側はほとんど垂直に近い切崖が施工されている。土塁は本丸幅(東西)両端部までつながっている。







【写真左】土塁頂部より切崖を見る
 亀山城そのものの規模は小ぶりな方だが、こうした土塁など、遺構そのものの施工精度が高い。









【写真左】本丸より東方を見る
 小奴可地域には、このほかに地名として「内堀(うつぼり)」「寺ヶ成山」といったところがあり、小奴可宮氏関連の遺構がまだありそうである。
 写真は内堀方面遠望






【写真左】本丸の北側にある登城路を降りた、南側付近  山城ファンの希望としては、北側の開けた部分の整備もありがたいが、できればこの南側の遺構をもう少し整備していただくと、かなり満足する。

 竹林状態や倒木が多い状況になっているが、遠くから見る限り、北側面以上に城塞としての遺構が多いように見える。しかも、他の山城ではあまり見かけない変化に富んだ遺構があるようだ。

【写真左】南側途中の登城口
 このあたりは、民有地のせいか、手が加えられていないようだ。しかし、この付近もなかなか見ごたえのある遺構がありそうだ。