2009年10月28日水曜日

和久羅山城跡(島根県松江市朝酌町)

和久羅山城跡(わくらやまじょうあと)

●探訪日 2009年10月23日
●所在地 島根県松江市朝酌町
●遺跡の現状  山林 
●土地保有  民有地 
●指定  未指定
●標高  261 m
●備考  16世紀、原田孫兵衛が築城(以上、「島根県遺跡データーベース」より)
◆解説(参考文献「尼子盛衰人物記」「尼子物語」編著者 妹尾豊三郎 等)

 和久羅山は現在地元松江市民らの手軽なハイキング登山の山として、北隣の嵩山(だけさん)とともに親しまれている山である。
 場所は、松江市街地の東方にあって、宍道湖と中海をつなぐ大橋川北岸部に立っている。
【写真左】和久羅山城遠望・その1
 大橋川南の茶臼山城本丸跡からみたもの。
【写真左】遠望・その2
 東方の中海に浮かぶ大根島から見たもので、右側には嵩山が見える。








戦国期、当城も尼子・毛利の合戦において激しい戦があったようだが、軍記物などには他の主だった山城ほど登場していないせいか、知名度が低いようだ。

遺構概要は、島根県遺跡データーベースによると、郭、帯郭、土塁、虎口が記録されている。

なお、一般的な国土地理院による和久羅山の標高表示は、本丸跡の位置でなく、この場所より北西方向へ直線距離約300m地点・標高「244.0m」となっており、従って、和久羅山城本丸跡の位置・標高「261.7m」は通常の地図には掲載されていないようだ。
【写真左】西尾農免街道脇にある登山道入口付近の案内板
 西尾農免街道は、松江市湖北東部から湖南東部へ渡す中海大橋とつながっていることもあり、平日でもかなりの車の往来がある。急坂が多く、うっかりしていると、この場所を行き過ぎてしまう。



 さて、その戦国期の状況だが、断片的な記録しかないようで、写真にある現地案内板(左写真参照)には、

「…古くから山砦があったといわれるが、戦国時代には尼子氏の家臣原田五郎兵衛同左衛門太夫の居城であった。坂道4キロばかりで中途は険しい。城址に残存する礎石は見当たらないが、一の床、二の床、三の床に分かれ、また山腹には馬場らしいものもみえる。…」とある。

 当城の付近にはこのほかに、二保山城、城処城、志達山城といった小規模なものがあるが、おそらくこれらは和久羅山城の支城か、一部には向城としての役目をもったものがあったと思われる。

 ところで、妹尾豊三郎編著「尼子盛衰記」の中で、以下の事項が記載されている。

朝酌和久羅山城主 羽倉孫兵衛元景、又多賀備前守信忠
上ノ羽倉山城主 原田右衛門太夫義重 永禄ノ頃

 この記録からみると、下段の原田右衛門太夫義重と、前段で示した、①原田孫兵衛、②原田五郎兵衛同左衛門太夫の名前が、姓は同じながら、下の名前が違う。

 また、山城名でいえば、二つの★印の山城名が、実際は同一のものではないかとも思われる。そうなると、上段の城主二名は、少なくとも下段の原田某が治めていた時期とは違うということになる。
【写真左】和久羅山城遠望
 登山口駐車場側(南側)からみたもので、右側の少し高い位置が本丸跡になる。







 
 ここで、同じ妹尾氏編著の「尼子物語」の中で、和久羅山城での合戦の様子を語った下りがあるので、少し紹介したい。副題「末次の攻防」の項。

“…同年(元亀元年:1570年)9月上旬、元春(吉川)は六千騎をもって、出雲国内に残っている尼子勢を一掃しようと、富田城から討って出たので、古志の城主古志因幡守は、まず第一番に冑を脱いで毛利に降参してしまった。



 羽倉(わくら:和久羅ともいう、嵩山の東方に連なる山)には、毛利家より長屋小次郎という者を城将として守らせていた。尼子方では横道源介・横道権允の兄弟がしばしばここに押し寄せ、城の麓に放火などしてこれを悩ませた。

 城内では最初のうちこそ、出でて防ぎもしていたが、尼子の勢力がなかなか強いので、あとはただ城を守るだけで精一杯の様子だった。

 これを見て、山中鹿助・横道兄弟等は一千余騎で一気に乗っ取ろうと攻めかけ、外郭の小屋など一軒も残らず焼き払ったので、城中の苦しみは容易ではなかった。このことを聞いた元春は、
「かくては一刻の猶予もできない」
 と、自ら出馬しようとすると、益田越中守藤包(ふじかね)が、
「私が参りましょう。長屋は先年若山にいた時、大内義長が攻めてきたとき、城を明け渡して退却したことがあります。今回でも、我慢できないと思えば、ずいぶん落ち延びかねないものです。急いでいかなければ、どんなことになるかわかりません」
 と、その座を立つと直ちに一千五百騎を引き連れ、羽倉城へ馳せ向かったので、三沢・三刀屋もこれに続き、総勢二千余騎がまっしぐらに鹿助の陣へ討ってかかった。さすがの鹿助もこれにはたまらず、真山へ引き上げていったので、危ない所で長屋小次郎は落城を免れることができた。…”

【写真左】登山口駐車場
 先ほどの入口から50m程度入ったところにある。駐車台数は5,6台は停められる。この場所から登山開始する。






 この時期までには、毛利勢がほとんど出雲部を治めていた時期で、永禄9年(1566)11月21日、富田城が落城したのち、その後着々と出雲の主要な所領を家臣に安堵している。

 その後、永禄12年(1569)6月に山中鹿助らが、尼子勝久を擁して隠岐から出雲へ入り尼子再興戦を開始すると、状況は一変する。

 尼子氏本城の富田城を陥れても、尼子残党は相当国内に潜在していたことから、鹿助の挙兵によってこうした流れになっていったが、和久羅山城については、かなり早い段階で毛利方におちていたと思われ、尼子方の前城主・原田某から、毛利方城将長屋小次郎に城主が変わっていたようだ。

 出雲国における毛利方支配の総仕上げは、実質この元亀元年から2年にかけてが最大の山場で、和久羅山城も含め、出雲国各城で同時並行的な戦が繰り広げられている。
 特に、宍道湖・中海周辺における戦は、児玉就英を中心とした児玉水軍による海路での役割が極めて大きく、戦況が変化するとすぐに船によって移動ができた毛利方の周到な体勢は、鹿助らゲリラ部隊と決定的な力量の差があった。

【写真左】登城途中の道
 登山客が多いせいか、道は整備されている。


写真の場所は尾根伝いになったところだが、土橋のような雰囲気ももっている。もちろん遺跡データには記載されていないが。






【写真左】本丸近くの登城路 頂上部に近くなるに従って急こう配になり、七曲個所が増える。











【写真左】和久羅山本丸跡その1 冒頭で記したように、この位置は標高261.7mのところで、244mの頂部を持つ場所は、この写真の後方になる。 

 本丸跡の形状は北西から南東に向かって延びたやや楕円形に削平されたもので、長径70m前後、短径10~20m前後と予想以上に広い。

 写真にみえる下面がきれいに管理された部分は、そのうちの約半分で、残りは次の写真のように伐採もされていない。

【写真左】その2 手前が下草などが刈られた部分で、その奥(東南部)は、樹木が残ったままになっている。








【写真左】その3  南東部の樹木のある位置にあった三角点
 この位置が標高261.7mということだろう。









【写真左】その4
 本丸跡南東部の先端部であるが、このあたりから切崖に近い傾斜になっている。








【写真左】その5
 本丸跡より宍道湖および、平田(北西方面)を見る。中央のかすんでいる山は「北山」でその麓には当時「鳶ヶ巣城」において毛利軍が陣を張っていた。








【写真左】その6
 本丸跡から、宍道湖南、松江市および斐川高瀬城方面を見る。








【写真左】その7
 本丸跡より、手前大根島、その向こう弓ヶ浜半島、さらに美保関を見る。 









【写真左】その8
 本丸跡より、橋南の茶臼山城を見る。
写真中央の山で、村井伯耆守が拠った。ただ元亀元年ごろの茶臼山城の動向ははっきりしない。

2009年10月26日月曜日

中倉城跡(鳥取県日南町印賀)

中倉城跡(なかくらじょうあと)

●探訪日 2009年10月23日
●所在地 鳥取県日南町印賀
●城主  一条肥前守

◆解説
 前稿「印賀宝篋印塔」の中で、「中倉城跡」のことを少し述べたが、当城に関する史料があまりないため、詳細は不明なものの、関係すると思われることを述べたい。

 所在地である、日南町印賀という場所は、地元の呼び名で別名「日南町大宮」という。前にも述べたように、奥出雲から伯耆にかけては昔から良質の鉄が採れることから、「印賀鋼」発祥の地でもある。

 中倉城については、戦国時代「一条肥前守」の居城であったという。別の資料によると、この印賀地区に、応永年間(1394~1428)に「一条山城」を居城とした同名の「一条肥前守某」がいたとある。

 前記の記録は、印賀宝篋印塔が設置してある「案内板」のもので、後記のものは出典が不明。
 応永年間は足利義満が征夷大将軍を辞任し、その子・義持が後任となったころで、伯耆では、応永元年(1394)8月1日付で、義満が山内通忠に忠節の賞として、同国日野郡伊(印)賀村などを宛行う(山内首藤家文書)とある。

 応永年間に一条氏が最初に入部し、おそらくそのまま戦国期まで同氏が続いてきたということだろう。永禄年間に、日本海側にある「八橋城」を尼子側から奪った毛利元就は、その後同城を南条宗勝に命じて死守すべく、その武将の一人として「一条一助」らを派遣させている。その後天正年間になると、一条氏は南条氏の家臣として活躍しているようで、「一条清綱」という名が見える。

 さて、今回の中倉城だが、そういったことも含めると、中倉城は別名「一条山城」である可能性が高い。
【写真左】印賀宝篋印のある八幡山からの眺め
 中倉城の位置は図の場所だが、どうやら、この山全体が一条山のようだ。後ろの大きな山は鷹入山という。
【写真左】八幡山から中倉城遠望
 中央部の高くなったところがおそらく本丸と思われる。

【写真左】中倉城の左側を見る。
 左の中段部に平坦地が見えるが、公園のようになっていて、その左側傾斜部はスキーができるような大きなスロープがある。

 下の白い建物は、廃校になった旧大宮小学校。
【写真左】上記公園から中倉城麓付近を見る。
 この日は、登城していないが、案内板もなく現在では整備された登城路はないかもしれない。
 本丸の高さは八幡山よりはだいぶ高く見えた。

2009年10月24日土曜日

印賀宝篋印塔と八幡山(鳥取県日南町印賀)

印賀宝篋印塔(いんがほうきょういんとう)
                  と八幡山

●探訪日 2009年10月23日
●所在地 鳥取県日南町印賀

◆解説
 今月の投稿で、「日南町中石見の宝篋印塔」を取り上げた際、鳥取県ではもっとも有名な宝篋印塔として印賀の宝篋印塔があると紹介していたが、今回その現地を訪れたので紹介したい。
【写真左】印賀宝篋印塔











 場所は、同じ日南町であるが、場所的には島根県寄りの北部・印賀という場所になる。国道180号線(法勝寺往来)の菅沢ダム湖北端部で枝分かれする48号線(阿毘縁菅沢線)を入り、しばらくすると小さな盆地に出る。

 この地区が印賀集落で、「古市」とか「宝谷」という字名が点在する。この場所から、北の方面に向かい寺谷坂という峠を越えると島根県安来伯太に出る。また、西に向かうと途中で、古刹「解脱寺」があり、さらに奥出雲町につながる。昔の伯耆国と出雲(雲州)の接点であり、備中との中継地点でもある。

今回取り上げる印賀宝篋印塔は、そうした歴史を持った場所に建っている。

【写真左】48号線から分かれた付近の案内板
 この場所に下記のような印賀宝篋印塔についての説明板が設置されている。



“ここから南へ約1.3キロメートルほどの小高い八幡山(はちまんやま)の頂上、木立の中に石像文化財「印賀宝篋印塔(西暦1357年建立)」があります。

 今をさかのぼること約600余年。日本は南北朝時代にあり、後醍醐天皇方(南朝)と足利尊氏が擁立した光明天皇方(北朝)が相争った時代にありました。後醍醐天皇の忠臣・楠木正成や新田義貞、名和長年が、北朝の足利方と激しく戦った事は歴史に残っています。

 この戦いは、ここ印賀の地方武士にもおよび、九州での南北朝の戦いに南朝方の援軍として200余人が結集、出陣しています。

 出陣に当たり「この地に再び生きて帰ることはない」と、自分たちで菩提を弔う逆修の塔として、この印賀宝篋印塔を建立したといわれ、今日までその時代の証を伝えています。

 また、この宝篋印塔は、地方では第一級の美しさと最古の部類に入る大変貴重なもので、鳥取県の保護文化財に指定されています。
みなさまもどうぞ一度、お参りになり南北朝の時代へ想いをはせてください。”

【写真左】印賀宝篋印塔が建立されている「八幡山」
 同塔は、同山の頂部に設置されている。八幡山については後段参照。
【写真左】八幡山登城口付近
 登城路は2カ所あり、写真は南東部にある駐車場側(兼:ゲートボール場)からみたもの。

 始点から終点まで直線の階段が設置されている。距離は約100m程度か。


 なお、この手前右側に小祠が祭ってあり、その手前のかなり大きな平坦地(現在は杉などが植林されている)があった。

 おそらく八幡山という名称から考えて、当時この場所に「八幡社」のようなものがあったと思われる。その社の前身は「侍屋敷」などが建っていたような雰囲気があった。
【写真左】印賀宝篋印塔その1
 八幡山の頂部にかなり大きな平坦部があり、その頂部に建屋を設置し中に安置されている。
【写真左】その2
 下段の説明板にもあるように、ほとんど劣化の痕跡を認めない奇跡的な石像で、650年以上も経ったものとは思えない。


 材料となった花崗岩の質も良かったかもしれないが、永年にわたって地元印賀の先祖代々がこの印塔を守り続けてきたからだとおもえる。

 普通、こうした石造物は角のほうから摩耗・剥離の症状が出て、丸みを帯びた形状になってくるが、そうした外観上の変化もほとんど見られない。
 そうしたことから、県指定保護文化財となるだけのものはあると、つくづく感じた。


【写真左】その3


















 当地に同塔の説明板がある。以下転載する。

県指定保護文化財
印賀宝篋印塔
(昭和28年8月8日指定)
 八幡山のこの宝篋印塔は、印賀宝篋印塔と俗称される。総高2.4m、花崗岩製で相輪、笠、塔身、台座、基礎、基壇を完全に残している。


 塔身は方形で、正面には銘文が彫られているが、磨滅してほとんど読めない。もとは、
「逆修一日□□妙典、十三部供養巳畢 正平十二酊十月 一結衆二百餘□敬白」
とあった。


 逆修は、逆(あらかじ)め冥福を修める意である。正平12年(1357)は、南朝の年号であるが、時は南北朝の対立、混乱の世の中であり、南朝の正朔(せいさく)を奉じる武士たちにとっては、前もって自らの死後の菩提を弔っておくことは必要なことであった。印賀周辺の二百余人の武士たちの切実な願いが、この逆修塔の建立となったのものである。


 この宝篋印塔は、県内では最も古い部類に属し、意匠的にも技術的にも優れた石造建築であるとともに、逆修の銘文は、当時の史料として貴重なものである。
昭和56年2月
 鳥取県教育委員会”
【写真左】八幡山遠望
 中央頂部に同塔が設置されている。








◆ところで、印賀宝篋印塔が設置されているこの「八幡山」という山だが、写真のように比高はさほどないものの、地取り位置や、頂部の削平地などをみると、「山城」の条件を備えているように思えた。


 現地の説明板には、この八幡山北方に「中倉城跡」というものもあり、当山もそれらと関連した城塞ではなかったと思われる。

【写真左】北側からの登城路付近
七曲経路の登城路が造られている

 この道は近年造られたもので、全体に北方方面が見渡せるように伐採されている。

【写真左】八幡山頂部から北東方面を見る
 頂部から東の尾根伝いに歩いてみたが、笹が繁茂していて、地面の状況がつかみにくかった。ただ、人工的な段丘面の痕跡があった。

但馬・塩冶氏について(城之助氏より)

但馬・塩冶氏について

 前稿「芦屋城主・塩冶氏」を取り上げた際、同氏の出自が不明と紹介したが、「城之助」さんより、つぎのような情報をメールでいただいたので、紹介したい。

“トミーさんの更新された記事にある但馬塩冶氏について調べた事を少しばかりお伝えします。
塩冶高貞の甥にあたる塩冶通久の四男、周防守の子(某)が祖となるようです。”

 以上のように、やはり塩冶高貞の系譜であったことがこれで分かった次第。

 興国2年(暦応4年:1341)3月、高貞が山名氏からの追討を受け、現在の島根県宍道町白石(又は佐々布)で馬乗のまま、腹を掻き切るという壮絶な自刃をした際、同行していた家臣は殉死しているが、塩冶氏一族の一部は何とか免れているようだ。

 情報提供していただいた城之助さんにお礼申し上げます。

2009年10月21日水曜日

芦屋城(兵庫県新美方郡温泉町浜坂)

芦屋城(あしやじょう)

◆登城日  2008年6月16日(月曜日)曇り
◆城主   塩冶周防守
◆標高   175.7m
◆所在地  兵庫県美方郡新温泉町浜坂城山公園

◆解説(現地説明板より)

町指定史跡 芦屋城跡
    指定年月日 昭和60年3月1日
    所有者・管理者 芦屋区 他


 芦屋城は、戦国時代の武将・塩冶周防守が居城にしていた城で、周囲を断崖絶壁に囲まれた地形は、天然の要害となっており、海上交通を抑えるために築かれた城である。

 芦屋城は、天正8年(1580)、羽柴秀吉が但馬を攻めたとき落城した。城主・塩冶周防守は、鳥取城主・吉川経家を頼り、翌年羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき、再び鳥取の雁金城と丸山城で戦ったが、いずれも落城し、自決した。

 昭和59年発掘調査が本丸部分について行われ、建物跡や青磁・白磁・天目茶碗、古銭・硯などが多数出土した。

平成9年3月 ○●教育委員会“(雑草のため読めず)
【写真左】芦屋城の配置図
 相当年数の経った案内配置図で、ツギハギの個所もあるが、参考になる。















◆追加資料
 地元・新温泉町教育委員会のサイトから転載の情報を下記に追加する。

“「塩冶周防守顕彰碑


 塩冶周防守は芦屋城を居城とした城主で、天文8年(1539)に亡くなり、芦屋の龍潜寺に開基として位牌が祀られています。 この碑は、昭和4年昭和天皇御大典記念に芦屋区が塩冶周防守の治世を偲び建てたものです。

 芦屋城は、周囲を海と断崖絶壁に囲まれた標高170mの山頂にあり、海上交通を押さえるために築かれた城です。

 子孫の塩冶周防守高清は城主として水軍の将・奈佐日本助、佐々木三郎左衛門と共に活躍しました。天正9年(1581)羽柴秀吉軍が但馬を攻めたとき芦屋城は落城し、高清は鳥取城主吉川経家を頼り、翌年鳥取城の出城雁金城や丸山城を守りました。


 再び羽柴秀吉軍と戦ったが、鳥取城の落城により高清は、奈佐日本助とともに丸山城で自決しました。高清と奈佐日本助の墓は、丸山城の麓に祀られています。

・建立年月日 昭和4年
・碑文 碑面 城主塩冶周防守之碑   碑陰 光照院殿梅月宗香大禅定門
         天文八年己亥五月八日逝去
・揮毫 不明
・建立者 芦屋区
-問い合わせ-
新温泉町教育委員会 社会教育課”



なお、龍潜寺という場所にはこの日は向かっていない。
【写真左】車で登った駐車場から見た「風待ち湊 諸寄港」という場所
 北前舟などの寄港地でもあったようで、江戸時代はかなりの繁栄を見せていた。

 なお、この駐車場までは車でいけるが、その先もポールと鎖で通行止めがしてあるものの、頂上部にテレビ塔があるためか、軽自動車の四駆なら登れそうな道である。



【写真左】駐車場から見た芦屋城遠景
 駐車場は展望台と兼ねている。写真はその場所から見た芦屋城の光景。


 高さは175m余りなので、この駐車場でほぼ半分の80mぐらいの高さに来ていると思う。

【写真左】登城口付近の看板
 左方向: 城山園地と岡垣徹冶歌碑
 右方向: 塩谷海水浴場0.4キロ
 加藤文太郎記念碑0.9キロ
 右斜め方向: 芦屋城跡0.6キロ


 ポールそのものには、「近畿自然歩道」とある。
なお、この地域一帯には歌碑が多くあり、俳句や川柳などが盛んのようだ。


【写真左】登城途中の道路面
 簡易舗装でコンクリートになっているが、周辺の雑草は相当延びている。近年はあまり整備されていないようだ。

【写真右】頂上付近の下にあるテレビ塔2基のうちの一つ
 このテレビ塔はたしか、NHK用だったと思う。おそらく当時は郭の一部だったかもしれない。

【写真左】本丸跡
 広さは雑草が多くてつかみにくいが、幅10m、奥行30mぐらいだろうか。写真の奥にあるものは、もう一つのテレビ塔。

【写真右】本丸跡で見つけた石垣の跡と思われる数個の石
 写真では分りにくいが、北側の海端の位置にまとまった石の塊があった。


【写真左】本丸跡から見た新温泉町・浜坂の港(東方面)
 向こうに見える山は、観音山というらしい。頂上部には、観音山相應峰寺本堂というものがある。

【写真左】本丸跡から見た北にある山
 この山の名前は不明だが、おそらくこの山も当時芦屋城の出城や砦の役割を果たしていたと思われる。
【写真右】本丸の東側に見えた登山道路?
 一般の登城者は、舗装された道を登っていくが、雑草に覆われた本丸の東側崖に写真のようなロープが設置してあり、登山専門の道のように見えた。
【写真左下】本丸の場所とは別の西に郭があり、その脇に見えた井戸跡
 どちらにしても訪れた時期も悪いが、雑草や藪こぎ状態の山城で、下の看板では「公園」と表示している割にほとんど清掃されていないので、遺構の確認さえも困難。


 唯一、この井戸付近は岩が多かったこともあり、はっきりと確認できた。この周りにも休憩用のベンチが設置してあるが、草やカヤなどが繁茂していて、よっぽど草刈り機で刈り取りしたい気持ちになった。





◆まとめ

 現地の状況は写真で示した通りで、2008年の6月に訪れている。時節柄周辺の雑草が繁茂しているが、しばらく手入れがされていないような雰囲気だった。

 この山城もだんだんと忘れ去られようとしているような感じがする。やはり地元に郷土史家や山城の愛好者がいないと、こうした史跡の保存管理はなかなか容易でないようだ。しかも昨今の自治体の財政難もあり、こうした史跡の方にカネが回らないのだろう。

 さて、この芦屋城の城主・塩冶周防守については、以前から気になっていた。というのも、後醍醐天皇が隠岐から脱出して京へ上洛し、建武の新政をおこなった南北朝初期、出雲の塩冶高貞が活躍しており、この塩冶氏との関係がどうなのか、興味があった。

 その結果、結論からいえば、史料がなくはっきりしたことはいまだに分からない。 塩冶という姓名から、出雲・塩冶氏と関係があるかと思われるのだが…

 考えられる説は次の二つだろう。

① もともとこの塩冶周防守と名乗っている人物は、地元の海賊・水軍の出自で、出雲の塩冶の名を名乗っただけのもの、という説。

② この芦屋城主・塩冶の系譜をたどると、やはり塩冶高貞につながるという説。

 ただ、私は②の説のほうをとりたい。というのも、①のような説ではあまりにも雑な論で、意味もなく「塩冶」という姓を名乗ることはないと思われる。また、時代がすでに高貞時代から200年以上も経っているが、本人(高貞)の庶流は残っていたはずで、中で同じ山陰沿岸にすむ者が出てきてもおかしくないからである

 今回もう一人の「 奈佐日本助(ナサニホンノスケ、またはナサヤマトノスケ)」という人物も興味ある人物である。

 これまで主に西日本の戦国記関係の資料を読んでいるとき、時々登場していたこの「奈佐日本助」という人物が、名前からして特異に思われ、興味を持っていたが、やっとこの男の人物像が分かってきた。

 それは、地元の海賊で一説には「但馬の水軍」又は「丹後の水軍」といわれたらしい。近くにこの彼の本城「奈佐城」というのもあったらしく、村上水軍ほどでないにせよ、山陰東部の沿岸部では相当の支配力を有していたようだ。

 最後は、塩冶氏と同じく、秀吉の鳥取城攻めの際、毛利方に与し、ふたりとも出城の「丸山城」で、吉川経家と同じく自刃する。その供養塔が現地にもある(探訪済み)。

2009年10月20日火曜日

天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)

天神山城(てんじんやまじょう)

●探訪日 2009年10月12日
●所在地 鳥取県鳥取市湖山町南
●遺構  井戸、櫓跡、堀
●出土品 土器、中国製陶磁器、備前焼、古銭、下駄、曲げ物等
●指定 鳥取県指定史跡(昭和51年)
●標高 25m、南北幅170m、東西幅100m
●築城期 文政元年(1466)
●築城者 山名勝豊
●形式 平山城(水城)

解説(参考:「鳥取県史2中世」等)
 天神山城は鳥取市の西にある湖山池の東岸部に設置された小ぶりな平山城で、室町時代山名氏の居城であった。「鳥取県史2中世」によると、当時の城域は現在地を含め南東部まであったものと思われ、同史に当時の当城付近の図が示されている(下写真参照)。

 これによると、城域南端部は現在の布勢運動公園の北端部まで(21号線:鳥取鹿野倉吉線)、東端部は湖山停車場布勢線(181号線)までに広がっていた。外堀も天神山および布勢卯山を含めたものになる。従って当時の城域は、現在の天神山の約5倍の大きさを誇っていたものと思われる。

 ちなみに、県史には書かれていないが、天神山の北を北東に流れている湖山川は、現在湖山池と日本海をつないでいるが、当時は川幅も広く、現在の鳥取港を河口とせず、千代川に流れていたものと思われる。つまり、水運に重きを置く「水城」ではなかったかと考えられる。
【写真左】天神山城遠望
 南西部にある湖山池公園側から撮ったもの。








 総じて天神山城は、総構えの南部には多数の寺院や高級給人の居館を配し、東域には釣山城・北尾山城・鍋山城・吉山城といった出城・砦を多く配置している。
 
 また、近世城下町のような明確な都市計画ではないが、すでにこの時、ある程度の城下町としての都市プランをもった先駆的な事例だと同史は伝えている。

 なお、当城は築城後、天正元年(1573)山名豊国が鳥取城に本拠を移すまで約100年にわたって同氏の因幡国支配の拠点となった。

【写真左】布勢天神山城付近図(推定)(『鳥取県史2中世』より転載)
 これで見ると、北部の天神山より、南部の城域がだいぶ大きい。
 









【写真左】現地説明板にある絵図












【写真左】本丸付近
 外から見る以上に、郭の規模が大きい。




【写真左】井戸跡
北側の入口から上がったところにある。
【写真左】本丸付近
 段の高さは1.5m程度だが、全体に郭平面の削平が丁寧である。

【写真左】石垣の跡
 個所は多くないものの、はっきりと確認できる。

【写真左】堀切跡 堀切そのものの規模は、当城の規模が小さいこともあって、小ぶりなものになっている。
【写真左】本丸南部より西に湖山池を見る。
 手前に見える島は青島で、その奥の対岸には「防己尾城」がある。