2009年12月27日日曜日

四ツ山城(島根県益田市美都町朝倉・小原 滝山)

四ツ山城(よつやまじょう)


●所在地 島根県益田市美都町朝倉・小原 滝山
●登城日 2007年12月17日
●標高 233m
●築城期 南北朝時代
●築城者 益田兼広
●指定 市町村指定
●遺構 郭、腰郭、堀切、竪堀、連続竪堀、虎口他

◆解説(参考文献「益田市誌(上巻)」「島根県遺跡データベース」等)
益田市街地から益田川に沿って191号線を約10キロ余り東に向かうと、東仙道というところですこし右にカーブする。この手前の左側にそびえているのが四ツ山城である。位置的には益田川の北岸にあり、旧地名でいえば朝倉郷にあたる。
四ツ山城から谷を一つ隔てた旧原郷地区には、竹城背戸山城という二つの城跡もあり、出城または支城の役目があったものと思われる。
【写真左】四ツ山城遠望
 2010年4月撮影。
北側から見たもので、南側から全景を見ることができる場所は限られているようだ。

ところで、管理人がよく利用している昭文社版「県別マップル道路地図・島根県」には、この四ツ山城の位置が実際とは違って、前述した「背戸山城」の位置に表記してある。この日訪れたのは2007年12月で、頼りにしていたこの地図を参考にした為に、大分混乱したことを覚えている。

●当城の概略は、例によって現地の説明板から紹介する。
【写真左】四つ山城の配置図(「益田市誌(上巻)」より転載)
 この日は、一の岳付近までしか登城していない。というのも前述のように、当城の所在地を確定するまでずいぶんと周辺を徘徊したため、時間が足らなくなってきたためである。

四つ山城の歴史
 四つ山城は、寄り添うように並んだ、標高220m余の同形、同高の四つの山を以て一つの郭とする山城である。
 それぞれの山は急峻で、東の一の岳を主城として、西に二の岳、三の岳、四の岳と各自に砦が築かれている要害堅固な城であった。

 この城は、鎌倉時代中期、益田氏によって築かれたが、その後、その支族である三隅氏との骨肉相食む争いの中で、その領有は度々変わった。しかし、いずれに属する時も、この四つ山城は、両国の橋頭堡となる重要な城であった。

 時は流れて元亀元年8月29日、当時、三隅領として高城、茶臼山城とともに三隅三城の名を誇った四つ山城は、毛利方、熊谷伊豆守、大友豊後守、佐々田十郎盛時等の率いる4500の大軍の猛攻を受け、城主須懸備中守忠高は、防戦むなしく500の将兵と共に城を枕に討死した。
 その時の合戦に、忠高の家来・加藤氏広佐々田十郎盛時との一騎打ちの勝負の物語は、今も里人に語り継がれている。”
【写真左】登城口付近
 この場所まで車でたどり着ける。駐車スペースも4,5台はおけたと思われる。

この中の三隅三城とされている高城は、三隅氏の本城で別名三隅城といわれ、旧三隅町の町南東にそびえる高城山(362m)にある。また、茶臼山城は三隅城から南西の方向約5キロ地点にそびえる茶臼山(292m)に配置されている。この茶臼山から南方約10キロ地点に四つ山城がある。

上記の説明板には書かれていないが、三隅三城を落とす際に、同年7月29日、三隅隆繁の拠る支城・針藻島(三隅川河口にある砦)へも毛利勢が押し寄せている。
なお、城主・須懸(すがけ)忠高は、須懸忠朝の長子で、父・忠朝は天文7年(1538)、益田氏と三隅氏との紛争調停を大内義隆が行った際、この地を三隅氏の領有とし、三隅兼頼より当城の城主として入城した。

記録によると、城主父子は、四つ山城北西の谷間である熊子屋敷に邸宅を構えていたという。また、四つ山城はその後、益田氏の領有となり、田川源八が留守役をしていたが、大屋形村馬の谷の城主・杉森氏久の攻撃にあい、討死したという。
【写真左】一の岳に向かう地点
 全体に道は整備されていて歩きやすい。
【写真左】二の丸
 一の岳にある郭で、小ぶりながら施工が丁寧だ。
【写真左】かわや
 山城遺構で、「かわや」というのはめずらしい。実際長期戦の戦になれば、当然、生理現象による処理施設はしっかりしたものをつくらないと、とてもじゃないが持ちこたえられないだろう。

【写真左】二・三・四の岳・井戸方面
 一の岳の南西端から向かう位置であるが、前述のようにこの先には向かっていない。
 幸い、「城格放浪記」さんがこの遺構部についても、分かりやすい画像を紹介しておられるので、御覧頂きたい。
【写真左】一の岳の主郭その1
 一の岳(一の平)が本丸の役目を果たしているようで、 上段に示した「配置図」でもわかるように、一の岳と二の岳の間の鞍部から北西に下がった位置に、「軍用水」が設けられていることから、この郭の重要度が高いことが分かる。
【写真左】その2
 一の岳の形状は南北に長く楕円形の郭を持ち、特に東方(益田川上流部)の眺望がよく効く。
 現在は写真のような工作物が設置されていることから、定期的な行事が行われているのだろう。
【写真左】一の岳から東方を見る
 手前に見える二本の道路に挟まれているのは、益田川で、写真の後方に見える山並みを越えると広島県に出る。なお、上流部には丸茂城などがある。
【写真左】一の岳から琵琶石岳を見る。
 四つ山城から北西約1.5キロ離れたところにある山で、標高330mである。
 特にこの方向からみると美しい山である。残念ながら山城ではないようだ。

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