2009年9月3日木曜日

山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)

山名寺・山名時氏

探訪日 2009年8月26日
場所 鳥取県倉吉市巌城956 山名寺

◆7月の投稿後、8月はまったく投稿・更新をせず、あっという間に9月に入り、気がつけば9月も終わりかけている。当ブログの読者がどれだけいるのかわからないが、あまり長い間「開店休業」状態をつづけていると、読者はもちろんだが、管理者本人がだんだんと継続性を失ってしまうので、今回久しぶりに投稿することとした。

 もっとも、タイトルである「山城」を掲載するのがいちばんいいのだが、探訪記録の整理・下調べができていないので、今回は寺院と墓所にさせていただく。

◆さて、今稿の山名寺、および山名時氏の墓所については、以前この近くにある田内城(巖城)を取り上げた際、いずれ当寺関係を載せたいと思っていたいきさつがある。

 倉吉には、田内城打吹山城(鳥取県倉吉市)、それに南方に伯耆・岩倉城(鳥取県倉吉市岩倉)があるが、中世には山名氏の支配が広範囲に及んでいる。

【写真左】山名寺遠景
 当寺は、倉吉市の西側を流れる小鴨川沿いにある。この川は倉吉市内で東側から流れてきた天神川と合流し、合流地点で終点となっており、そこから日本海までは天神川として下っている。

 山名寺や田内城がある地域は巌城(いわき)という場所で、山名寺ができる前には三明寺という寺院があったらしく、この写真の左奥に山名時氏の墓と並んで、「三明寺古墳」というのがある。

 山名寺に向かう道は大変に狭い。小鴨川の土手下に降りる道があり、その降りた地点には小鴨川と並行して北条用水という用水路が流れているが、この取入れ口も三明寺用樋門という地点からきている。

 山名寺周辺は、この小鴨川や北条用水を北に越えた山麓部に集落を構成しているが、いかにも中世の屋敷跡が建っていたような佇まいを残している。
 田内城はこの場所から小鴨川の堤防を約800m程度下ったところにある。


◆ 山名氏は源義家の子孫で、足利・新田・徳川の三氏と並んで上野国の山名村を基とする。暦応4年(1341)、出雲の塩冶高貞が京都から脱出した際、時氏は高師直の命を受けて、高貞を追跡した。

 高貞は自害し、この功によって山名時氏は因幡の守護になった。のちには伯耆国も領する。時氏は二国を支配するが、その後山名氏は中国から近畿にかけて11カ国をも領することになる。

 時氏の時代の本城としては、因幡では東部にある岩美町の岩常に二上山城(鳥取県岩美町岩常)を築き、伯耆においてはこの田内城(巖城)を根拠とした。この後同一族が支配した期間は、南北朝期から室町時代まで約200年間である。

 このうち時氏は暦応4年(1341)から応安4年(1371)までの約30年間で、主としてこの倉吉の田内城を居城としている。因幡の二上山城へは時々在城した程度で、倉吉の田内城を中心とした地域には、「見日(みるか)千軒」といわれた城下町ができたという。この城下町は天文13年(1544)まで
約170年続いたという。
【写真左】境内の西にある山名氏家臣の墓群
 現地の説明板によると、個々の墓は各所に散在していたらしく、のちにこの場所にまとめたとのこと。


【写真左】山名時氏の墓
 宝篋印塔の形式だが、中間部分がかなり剥離し細くなっている。



















さて資料によっては諸説あるが、「倉吉市史」(昭和48年発行)によると、山名時氏の生年は、永仁6年(1298)、弥太郎政氏の長子で、通称小二郎といった。官位は、伊豆守・正五位下・左京権大夫等。

貞治5年(1366)ごろには、出家して道静と法名する。

 時氏の子には男子が11人もいたという。あらためて彼の主な活躍を見てみると、波乱にとんだ人生である。最初は足利尊氏に従い、王朝勢力と戦い、その後足利直義・直冬と結んで幕府に翻し、帰参後は管領細川氏と対抗する勢力を有する。

 三条公忠は『後愚昧記』の中で、時氏を次のように評した。
「無道の勇士、命もって終わる。結句また短命に非ず、大幸の者なり」

◆南北朝時代の終わりに近い応安4年(1371)2月28日、73歳の天寿を全うする。遺骸は時氏の守護国のひとつであった丹波で荼毘に付し、遺骨を伯耆国光孝寺に埋葬される。光孝寺は、時氏が生前、同族である新田氏の出身臨済宗僧の南海宝州を招いて建てた禅院であった。

 光孝寺については手元に資料がないため、現在どの場所になるのか不明だが、山名寺付近とさほど離れていないと思われる。
【写真左】史跡三明寺古墳
 横穴式石室を持つ古墳で、昭和6年11月26日、国の史跡に指定されている。

 古墳など考古学の素養はほとんどないが、素人的に見てもかなり大きなもので、『倉吉市史』(昭和48年発行)によると、横穴式石室としては山陰地方で最大のものという。奈良の石舞台古墳ほど大きくはないが、一見すると洞窟で住まいができそうな感じがする。

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