2009年6月23日火曜日

宇波城(島根県安来市広瀬町宇波)

宇波城(うなみじょう) 

●登城日 2008年4月2日
●別名 土居城
●所在地 安来市 広瀬町 宇波
●築城期 正中2年(1325)
●遺跡種別 城館跡
●築城主 三村十郎朝貞公、真木氏
●標高 180m
●遺跡の現状 山林他
●備考 明治30年(1897)、宇波小学校旧校舎敷地形成中発見

【写真上】周辺図

解説(ひろせ史跡名勝 ガイドブック 比田・西谷・宇波・布部編 月山尼子ロマンの里づくり委員会より)

宇波城本丸

 高さ30mくらいで、右手に向かって300mくらい連なる丘で、北側(背面)が月山方向(中間に母宗峠と高小屋あり)にあたり、月山城の南側の唯一の守りの場所です。

 頂上の稜線には3,4か所地ならして、見張所跡のような台地が出ており、中腹に殿様平(10アールくらい)という平地があり、泉水のようなものがあり、年中水を湛えています。この下段にも「姫様平」といわれる10アールくらいの平地があって、大正初期まで小学校がありました。

 麓には荒神の杜があり、一抱え位な欅(けやき)の大木がありました。今は新校舎が建築され、切崩されて昔の面影はありません。右に土井という谷があり、小川が流れています。

【写真左】真木与一公墓から望む宇波城遠景










【写真左】宇波城登山道













 宇波城は、別名土居城(土井城)といわれたようですが、先年、某史跡研究家が現地調査された結果では、「政庁的存在」のものだったよう発表になりました。

 下方には水田が10ヘクタール余り平坦に展開しており、墓田、深田などという名や、上荒神、下荒神という地番名の所は武家屋敷で、上小路、下小路と屋敷集団の小路区画が地番名になったような言い伝えもあります。

 いずれにしても、ここが真木上野介・晴姫。惣右衛門高統・与一、真木一門の出生地かと思えば、郷土の者には懐かしい城跡です。


【写真左】宇波城本丸にある石碑
 平成19年城下の宇波小学校卒業生による碑で、下段に「土居城(宇波城)跡」と記されている。

“正中2年(1325)三村十郎朝貞公が築城。十代・真木上野介朝貞公の娘・晴姫は、月山城主・尼子清定公に嫁ぎし、経久の母君に当たる。

説明板より

 “13代城主・惣右衛門高経の子・与一は、元亀元年(1570)尼子・毛利の決戦で布部山に出陣し戦死した。その法輪塔は南山の丘にある。”
【写真左】宇波城全景



【写真右】本丸より南にある小学校方面を見る 
 写真に見える道は、近年の造成によるもので、小学校ができる前は、おそらく城郭そのものが現在の2倍程度あったものと思われる。

【写真左】本丸付近で唯一確認できた堀切
 遺構はめぼしいものはあまりないが、この堀切りはその中でもはっきりと確認できた。

 なお、写真にはないが、説明にある殿様平という場所(この本丸と思われる)に、小さな池があり、最近手入れしたようなあとがあった。





真木与一公の墓

 宇波城の南方に正対して小山が突き出しています。この山裾の10メートル位上に、昔から「鐘筑堂」と呼ばれる畳10枚くらいに地ならしをした平らなところがあり、一角に来待石のような石材で作った立派な宝篋印塔が一基あります。

「昔イボ取りにお陰がある」といって、囲い垣を造り盛んに拝んでいた老母がいたことがありました。
 近年、故・妹尾豊三郎先生により、布部山の合戦に討死した真木与一公の墓であろうといわれ、昭和63年に比田藤原玄聖師により、法名を「真徳院勇山俊道大居士」と号し、400年の法要が勧修されました。

写真左】真木与一墓の登り口道路から2分程度でたどり着く













【写真左】真木与一墓と説明板























説明板の内容を転記する。

真木与一墓所

 真木与一の祖父・上野介朝親は、経久の母の弟であり、富田城奪還(1486年:文明18年)の功労者と伝えられている。元亀元(1570)尼子再興軍が、布部にて毛利軍と戦ったとき、与一は尼子軍に味方したが、激戦の果て惨敗。与一も討死した。“

【写真左】宇波城へ行く途中にあった「鋳物師(いもじ)の里宇波」の看板より





 “宇波の鋳物師は、長禄2年(1458)、今から538年前、河内国(今の大阪)から山崎氏が入村して以来、鋳物業が始まり、次いで加藤氏、新石氏、家島氏が加わり、広瀬月山富田城尼子氏の歴史と並行して、鋳物師集団を築き上げ、元禄時代に入り、細田氏へと受け継がれ、宇波の鋳物文化は当時特殊産業として、近隣に名声を博し、数多くの鉄や銅製品を産出し、戦後昭和23年(1948)細田氏が鈩を閉じるまで、およそ500年にわたりその名をとどめた鋳物の里の歴史が残されています。


 古来、鋳物師は一国一集団の決まりがあり、朝廷からの許可書である「御綸旨(ごりんじ)」を授けられ種々特権も与えられており、他の者が自由に業を行うことは許されませんでした。
【写真左】広瀬の町から向かう途中にあった看板




 新石家、山崎家、細田家に残されている当時の古文書は、歴史を物語る資料として安来市の和鋼博物館に貸出し保存されています。

 鋳物は鉄や銅を溶かして粘土で作った型に流し込み、製品を造り上げますが、この原料となる「砂鉄」「木炭」「粘土」が良質で最適な条件を満たしていたこの宇波の地に鋳物が隆盛を極めた所以でもあります。

 過去鋳物の歴史については、昭和26年(1951)出雲考古民俗史家・松本興先生の郷土史誌「鋳物宇波」が発刊されており、貴重な資料となっていますが、残念ながら戦時中の金属供出により形として残されている作品が次第に姿を消し忘れ去られようとしている現状を憂い、近年に至り、近隣市町村に現存する作品を取材し、写真集として発刊し、当時産業として栄えた貴重な鋳物文化を郷土の誇りとして後世に伝承することといたしました。


平成8年10月吉日
広瀬町宇波公民館
郷土宇波を知る会“

2009年6月21日日曜日

松江・茶臼山城跡・島根県松江市山城町茶臼山

松江・茶臼山城跡(まつえ・ちゃうすやまじょうあと)

●登城日 2008年4月21日
●所在地 島根県松江市山代町茶臼山
●築城期 14世紀
●築城主 村井伯耆守
●標高 171m
●遺構 郭、帯郭、堀切、竪掘、連続竪掘、虎口 (島根県遺跡データベースより)
【写真左】茶臼山城遠景
南側の農道から撮ったもので、左側の高くなったところが本丸跡である。








解説
 現地・頂上の説明板より


茶臼山(神名樋野(かんなびぬ)

 茶臼山は標高171mあり、奈良時代の「出雲国風土記」には神名(かんな)樋野(びぬ)と書かれた神聖な山でした。出雲にはこの山以外に朝日山(松江市)、大船山(出雲市)、仏教山(斐川町)の四つの神奈備山(かんなびやま)があり、この場所からは見渡せます。

 ふもとには山代二子塚や大庭鶏塚などの古墳、「出雲風土記」に載る二つの新造院跡(寺院)、山代郷正倉跡(米倉)、出雲国庁跡、真名井神社などがあり、周辺一帯は古代出雲の政治・文化の中心地でした。

 また、都と地方を結ぶ古代山陰道が南の意宇平野の中央を通っていました。さらに、「国引き神話」の舞台となった大山、弓ヶ浜半島、島根半島なども見ることができます。

 中世には、見晴らしの良さや、交通の要地からここが山城となりました。頂上は平に加工され、見張り台などがつくられていたと考えられます。一段下がった場所には、攻めてくる敵を防ぐためのおおきな溝(堀切)もあります。

 遠くに見える山には、今から450年前、尼子氏と毛利氏が戦った荒隈城白鹿城が北側に、南東には京羅木山城があります。
         平成17年3月 島根県教育委員会”

【写真左】本丸跡
後方は北東部の東出雲町や中海












【写真左】登城途中の道
 この山城に向かう前に、カーナビで頂上を設定したところ、北側にある八幡ため池脇を指示し、そのまま進んでいくと、結局東側の真名井の方へ出ていき、また道がどんどん悪くなったため、途中で引き返した。


 そして、北西側の県営住宅などがある付近に、小さな字で「茶臼山登山道」という文字が見え、その近くの空き地に止めて登った。この登山道は割と地元の人も登っているらしく、急峻ながら適当に階段が施工されていたため、登りやすかった。


【写真右】登城途中にあった槍形の石を祀ったもの
  傾斜のある登山道の右に設置されていたもので、高さはは約1,5m、下の部分の幅は約60センチぐらいだろうか、人工的に彫刻されたようにも見えるし、自然石にも見える。周囲にこの石について説明文のようなものがないため、いわれは分からないが、昔から祀ってあるものだろう。





【写真左】登城途中にあった規模の大きい堀切り
 急勾配の登りがある程度落ち着いたあたりにあり、尾根の途中を切断したような形で、尾根幅が10mぐらいなのでさほど大きいものではないが、深さはかなりあり、当時は5m前後はあったものと思われる。
なお、このあたりから廓壇が少しずつ出始め、本丸まで4,5か所あるように見えた。







【写真左】本丸の西側にある一番大きな郭跡 本丸そのものもかなり大きく、目分量で東西30~40m、幅20m前後と思われたが、その下にあった廓もかなりのもので、奥行も25m前後あると思われた。


ただ、残念なのはこの郭跡もふくめ、本丸以外が雑草が繁茂し、全体の遺構がはっきりと確認できなかったことである。




【写真左】本丸跡から見た和久羅山
 和久羅山は、16世紀、原田孫兵衛が築城。標高261 m、郭 帯郭 土塁 虎口などがある(遺跡データーベースより)。





【写真左】本丸跡から北西方向の松江市内を見る
この写真では分かりずらいが、中央右奥の山並みに、真山城や白鹿城がある。




 “元亀元年(1570)8月下旬、毛利元就の老病は日に日に重たくなってきたので、毛利輝元・小早川隆景・吉川元長は雲州平田の陣を出発して、芸州吉田に帰ることとなった。

 途中、出雲大社に参拝して、神馬三頭を寄進したので、諸軍士もこれに見習い、我も我もと太刀・鎧などを奉納する者が多かった。

 同年9月上旬、元春は六千騎をもって、出雲国内に残っている尼子勢力を一掃しようと、富田城からうってでたので、古志の城主・古志因幡守は、まず第一番に冑を脱いで毛利に降参してしまった。

 和倉(和久羅ともいう、嵩山の東方に連なる山)には、毛利家より長屋小次郎という者を城将として守らせていた。尼子方では横道源介・横道権充の兄弟がしばしばここに押し寄せ、城の麓に放火等をしてこれを悩ませていた。



 城内では最初のうちこそ、出でて防ぎもしていたが、尼子の勢力がなかなか強いので、あとはただ城を守るだけで精いっぱいの様子だった。


 これを見て、山中鹿之助・横道兄弟は一千騎で一気に乗っ取ろうと攻めかけ、外郭の小屋など一軒も残らず焼き払ったので、城中の苦しみは容易でなかった。…“(尼子物語より)

【写真左】本丸跡から中海の大根島を見る

前稿で取り上げた「全隆寺城(波入城)」がある大根島が、中央奥の横に細長い姿で見える。




◆この山城名は、茶臼山城という名称で、山城名として余りにもポピュラーな名前で、正直言って興が削がれる感もあるが、別名出雲風土記に出てくる「神名樋山」ともいう。


 この山から南、東西にかけては、古代出雲文化発祥の地ともいわれ、多くの古墳、古社があり、律令時代には出雲国庁、出雲国分寺などがあった。

 県遺跡データベースによると、山城としての主だった遺構は残っているようだが、現地ではっきりと確認できるのは、本丸付近の郭と、かなり大きな堀切程度である。

 地元の小学生程度の遠足などにも使われているようで、登城道は整備されているが、周辺の山城関係の遺構部は雑草や雑木で覆われ、踏み込むことは困難だ。

 築城主が村井伯耆守とあり、築城期が14世紀という。村井某が14世紀の武将であるということなら、南北朝期ということだろう。当城については、戦国期の陰徳太平記などに出てこないが、位置的に考えれば、当然何らかの役割を果たしたものと思われる。

 本丸付近の周辺の雑木を伐採すれば、おそらく東西南北・全方向が見渡せる眺望の良い独立系の山城である。

全隆寺城跡(ぜんりゅうじあと)・島根県松江市八束町波入

全隆寺城跡(ぜんりゅうじじょうあと)

●登城日 2008年4月21日
●所在地 島根県松江市八束町 波入
●別名 波入城
●築城期 不明(戦国期と思われる)
●築城主 小川右衛門?
●標高 5m
●遺構 郭、土塁 堀

◆はじめに
 島根県東部には、二つの大きな湖がある。宍道湖と中海である。いずれも塩分を含んだ汽水湖である。その中の中海には大根島、江島という小さな二つの島がある。
 現在は中海西岸の松江市側からの堤防と、鳥取県境港市側からのそれとがつながり、直接車で往来できるようになっている。
 大根島が江島より大きいが、それでも面積は約6k㎡という小さな島である。

 この中海は、中世の歴史からみても、後鳥羽上皇や、後醍醐天皇などが配流された際や、また山中鹿助らが尼子再興を図ったときなど、たびたび史料に出てくる水域である。
 今回取り上げるのは、その中海に浮かぶ大根島にある水城・全隆寺城(波入城)である

 
解説(境内にあった小川氏の墓の裏にある説明文より)

“姫は毛利軍との戦いで、父・小川右衛門の訃報を聞き、出屋敷の海に身を投じたとのこと。波入□(判読不能)鳥の出屋敷に供養塔が建てられていたが、長年の風雪で破損し、荒地になったためここに新塔を建てる。
全隆寺開基・小川右衛門頌は安来市広瀬町冨田城主・尼子氏の家臣で大根島城主としてこの地を治める。“


◆コメント
 そもそも大根島に城があったということ自体が驚きだが、この城は地形的に見てもいわゆる「山城」ではなく、「水城」というべきものと思われる。筆者の少ない資料の中から関係する事項を拾ってみると、妹尾豊三郎氏編著「尼子盛衰人物記」の中に、「尼子時代及びその以前・以後 出雲国内の城とその城主」の項で、

「森山城主 秋上伊織介其の後、小川右エ門兵衛勝久

 という記事がある。森山城というのは美保関地域の城で、小川右衛門は当初から中海地域が担当だったようだ。
【写真右】全隆寺入口付近
 この日は島根半島付近の山城を探索したついでにこの寺(城址)に立ち寄ったのだが、御覧のとおりきれいな桜の花が咲き、思わずデジカメでたくさん撮った。
 この写真の右にある石碑を拡大したものを下に貼る。
 「尼子富田城出城址 全隆寺」と刻まれている。














【写真左】境内の西側にあった石垣
 この城址(寺)に関する説明文のようなものがないため、この石垣が当初からのものか不明だが、大根島の石は特徴的な火山岩のもので、この寺以外に、一般の民家でも石垣が多く見える。



【写真右】境内にある小川右衛門の石碑
 前項に載せた文面は、この石碑の裏に刻印してある。

【写真左】全隆寺本堂全景
 最近改修されたようで新しい。この建物も立派だが、むしろ住職さんの自宅がかなりの年代物で、写真に撮るのはプライバシーの面から遠慮した。建築史的には貴重な建物と思えるのだが…。
【写真左】全隆寺の桜
 入口から本堂までの周囲に多くの桜が咲いていた。とても手入れが行き届いていて、気持ちのいい時間を過ごせた。


◆感想
 残念ながら、城としての遺構はほとんど確認できるものはなかったが、写真にもあるように、寺院全体が非常にきれいで、しかも寺の前が波入という地の湊になっており、前方(南方向)には中海を挟んで、本城である月山富田城のある広瀬方面が見える。

 記録では宍道湖も中海も「海戦」が、度々繰り返されたので、湖底には多くの屍が残っていると思われる。合掌

2009年6月12日金曜日

弘長寺(こうちょうじ)・島根県松江市宍道町東来待

弘長寺(こうちょうじ)

●所在地 島根県松江市宍道町東来待854●開創 弘長3年(1263)
●建立開基 藤原満資(弘長寺院院殿満資道圓大居士)
●備考 北条氏
●探訪日 2008年11月1日

◆解説(参考文献『宍道町史』等)
 山城とは直接関係ないが、前稿まで取り上げてきた奥出雲(横田・仁多)の三沢氏と関係のあった寺院が、当地から相当離れた地である宍道湖岸に建立されている。それが、この「弘長寺」である。

 以下、『宍道町史』を参考に、おもだった流れを記す。
【写真左】弘長寺遠望
 この寺院の奥(南)にさらに行くと、数段の削平地がある。おそらく最盛期には多くの堂や坊があったものと思われる。







 同院の願主となって建立したのは、武蔵国の出身の成田氏で、弘長3年(1263)、同氏総領・左衛門尉藤原朝臣通資(満資)とある。同氏が勢威を保持していた時期は、鎌倉・南北朝期といわれ、その後次第に衰えが出始める。

 途中の経緯は省くが、明応5年(1496)、当時の弘長寺住職・宗順は、縁起以下19通の文書目録、及び10通の文書を作成し、三沢氏に提出している。時期を考えれば、当時三沢氏は、三沢城、すなわち仁多に在城していたころである。

 弘長寺のある宍道来待と、奥出雲仁多・三沢城までの距離は、当時の街道を利用したとすると50キロ前後はあったものと思われる。なぜ、弘長寺が三沢氏に対してこのような行為を行ったか。同町史によると、少し長いが引用させてもらう。
【写真左】当院の由来を記した石碑
 この由来では、承久の乱の後、入部とあるので、論功行賞として地頭を賜り当地へ来た、ということになる。
 また主君である北条重時・時頼の菩提を弔うため当寺を建立した、とある。このことから「寺紋」は北条氏の紋である「丸に三鱗」となっている(下の写真参照)。




”弘長寺が三沢氏と何らかのつながりがあって、その保護と支援を得ようとしたのは間違いないところであろう。

 この時期、来海荘はすでに宍道氏の支配下に置かれていたと考えるが、宍道氏でなく、あえて三沢氏に保護を求めたのにはそれなりの理由があったものと思われる。


 この点で注目されるのは、時代が少し下がるが、戦国期の三沢氏の家臣の中に「成田氏」がおり、それがかつての来海荘・宍道郷地頭・成田氏の末裔と考えられることである。

 南北朝期の成田氏が、奥出雲地方などの領主と結んで、反幕府的な行動を展開し、そのために没落を余儀なくされたと推定されることについては前節で述べた。こうした経過を踏まえて考えると、没落した成田氏一族の中には、奥出雲地方の有力国人・三沢氏の家臣となって、わずかに命脈を保ち、戦国期に至って三沢氏の奉行人として活躍する者もいて、かつての氏寺・弘長寺を再興したいという強い意向があり、弘長寺の側でもこれに頼って寺を再興しようとしたのではないか。


 一方、出雲の鉄を抑えている三沢氏の側にあっても、中海・宍道湖から日本海への流通ルートを確保するため、宍道湖に面して位置する弘長寺との連携には、大きな魅力があり、むしろ積極的にその支援と保護を申し出たのではないか。

 こうした相互の利害や要求が、噛み合うことによって、弘長寺文書の三沢氏への提出ということが起こったのではないか。そして、これを機に、弘長寺は、三沢氏の氏寺・晋叟寺(しんそうじ)(現仁多郡横田町)の管理下に置かれ、したがってまたその宗派も、かつての浄土宗系から、現在のように禅宗(曹洞宗)へと変更されることになったのではないか。とりあえずこのように考えておきたい。”



 こうした流れがあったため、同院の墓地には、三沢氏の始祖名である「飯島氏」や、同氏の家臣であった「石原氏」などの檀家墓が残っている。(下の写真参照)

【写真左】飯島姓の墓














【写真左】石原姓の墓













 なお、現在この地域の名称も「弘長寺」という名称で、寺領的な場所だったかもしれない。成田氏が入部した際、館もしくは山城のような施設を設けていたのではないかと思われるが、島根県遺跡データベースを見る限り、周辺にそうした遺構は記録されていない。


 初期の段階で、地頭クラスのものがどの程度の要害施設を保持していたのかわからないが、弘長寺の南方の山地に、あるいは設置していた可能性もある。


◎関連投稿

 伝・土御門の墓(島根県松江市宍道町東来待浜西)
 土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)

竹崎城跡(たけさきじょうあと)・(島根県奥出雲町竹崎城山)

竹崎城跡 (たけさきじょうあと)

●登城日 2009年3月15日
●所在地 仁多郡 奥出雲町 竹崎 城山
●時代 中世 
●遺跡種別 城館跡 
●遺跡の現状 山林 
●指定 未指定
●標高 498 m
●備考 河副城跡
●構種別 溝 その他 
●遺構概要 郭4 堀切 物見曲輪 溝 その他  郭 腰郭 堀切 櫓台?(以上島根県遺跡データベースより)

◆解説

小国城鬼神神社上へ砦の間を走る印賀横田戦(108号線)をさらに斐伊川に沿って登っていくと、竹崎という地区がある。この108号線の左(北)側の丘陵地に竹崎城がある。

 当城についても、ほとんど史料を持ち合わせていないが、前項した鬼神神社砦の稿でも記したように、永正16年(1519)尼子経久が藤ケ瀬城を攻略した際、当城も焼き打ちに遭っている。

 さらに、天正11年(1542)大内氏の富田城攻め惨敗のあと、尼子方がこの竹崎城(村)に、代官として森脇山城守家貞を置き、その傘下として河本某という武将を配置している。

●なお、当城は別名「河副城」ともいわれているが、これは「尼子家五老臣」の一人で、「仁多竹崎」を領治していた「川副美作守源常重」のことと思われる。

 川副氏がどの時期にこの地を治めていたか不明だが、武将の名前が冠されているところを見ると、かなり長い間この地を治めていたと思われる。

●また、断片的な史料だが、横田町誌によると、

 “遂に「新原くずれ」によって毛利氏を退却させ、銀山をとり返した。為清はこの時先陣を切って参加した。同年、竹崎庄の卜藏栄三は、岩屋寺に土地を寄進した。土地を武士が支配している当時として、武士以外のものが土地を寄進することは破格のことであった。卜藏死の財力がそうさせたものだろう。”
 とある。さらに、

 “富田城陥落のおり、尼子氏に仕えていた伯耆の卜藏義範は、十年畑に逃れて百姓となった。このあとが竹崎村卜藏氏に養子となり、惣兵衛と称した。そしてその孫が荒島村開拓の卜藏孫三郎である。永禄10年、安部源太左衛門は、稲田に新しく居を構え、土居の祖となった。”ある。
【写真左】竹崎城遠望 南側の道路から見る。
 写真はその遠望だが、当日この写真の左側から登って行ったが、どうやら遺構がよく確認できた場所は右側にあるようだ。






【写真左】左側の登り口付近 結局この道を上りつめたところには、地元民家の墓地があり、行き止まりとなっていった。
【写真左】郭の一部 上記の墓地より東(右側)へ強引に入っていくと、郭跡らしき場所へ出る。


 杉の植林と野生の竹が混在して、地面の状況は確認しがたいが、凡その形状は把握できる。
【写真左】土塁の一部 前述したように、東側から登って行けば、もう少し多くの遺構を確認できたと思うが、この位置からはここまで踏み込むのが限界だった。


 写真は、南先端部に区画された曲輪と保存状態のよい土塁。
 この土塁の高さはかなりあり、しかも区画が分かりやすい。

小国城(おぐにじょう)跡・(島根県奥出雲町大呂小国)


小国城跡 (おぐにじょうあと)

●登城日 2009年2月28日、3月15日
●所在地 仁多郡 奥出雲町 大呂 小国
●時代 中世 時代不明 
●遺跡種別 城館跡  ●指定 未指定
●備考 「小国殿塚」の石碑あり。
●遺構種別 溝 その他 
●遺構概要 曲輪 土塁 堀切

◆解説
 鬼神神社上へ砦跡の西側にある丘陵状の小山が小国城となっているが、鬼神神社の縁起に記された「大呂城」という名前のものがこの小国城の別名ではないかと思われる。この関係部分を再び下に示す。

 “正安4年(1303)三沢氏地頭として雨川へ入部、三沢郷を経て横田郷藤ケ瀬城(本城)を移すも、永正16年(1519)三沢為国のとき、尼子経久に攻略され、大呂城、竹崎城、船通寺、観音寺いずれも兵火に罹(かか)り「上宮伊我多気神社」も消失した。”
【写真左】小国城を北東部から見たもの
 右に見える寺院は妙巌寺という寺で、現在はこの場所にあるが、戦国期ごろは東側にある鬼神神社の山麓にあったという。

 このため、現在でも登院の墓地は、東部の鬼神神社側の傾斜地にある。


 この時の大呂城(小国城)の城主が誰であったかは不明であるが、三沢氏の一族であることは間違いないだろう。

 また、藤ケ瀬城(ふじがせじょう)跡・その1で取り上げた、天正11年(1542)の大内氏による月山富田城攻めの大敗後、尼子方が横田荘の各7か所に以下の諸将を配置している。

  1. 中村の代官には、森脇山城守家貞
  2. その統率の下、竹崎村には河本
  3. 大呂村には河制
  4. 下横田村には大石
  5. 蔵屋村には羽島
  6. 原口村には本田家吉
  7. 尾園村には多賀山氏
 この中の3.の大呂村に配置された「河制」という名は、おそらく「河副(かわぞえ)」の誤字ではないかと思われる。ただ、その後この武将がその後どうなったかは不明である。
【写真左】小国城の南西部から見たもの 当城の西南部は畑地で牧草のようなものが栽培されている。写真はその南西部で、雑木が繁茂しているため、この付近からは踏み込みがたい。








【写真左】妙巌寺境内にある宝篋印塔
 たまたまこの境内に入ったところ、ご覧のような立派な宝篋印塔があり、御住職にこのことについて質問したが、「私の父でもこの宝篋印塔については知らされておらず、いつからこれがここにあるのか分からない」とのこと。







【写真左】宝篋印塔の上部拡大写真
 御住職の父親さえ分からないということから考えると、明治時代、もしくは江戸時代にはこれがあったということだろうか。


 写真の上部まではしっかりしているが、その下部あたりは、移設したような痕跡がある。

 当寺はもともと東にある鬼神神社側の山麓にあったものを、いつの時代かこの小国城側に移設しているという。となると、この宝篋印塔は、鬼神神社側にあったときのものなのか、それとも移設してからこの地に建立されたものなのか、という疑問点も出てくる。

 それにしてもこれまで、山陰地方で見てきた宝篋印塔の中でも際立って保存がよく、しかも規模も大きく、石造美術の世界からみてもおそらくAクラスのものではないだろうか。

【写真左】宝篋印塔の脇にあった3基の欠損した宝篋印塔型
 このことから、最初は3基あったもののうち、1基だけのちに新しくして建て、残りをこのように脇においていたものかも知れない。






小池氏

 藤ケ瀬城や鬼神神社上へ砦、そしてこの小国城もふくめた横田の地は、出雲国内でも特殊なところで、鎌倉期には石清水八番宮領であった。

 この流れの中で三沢氏と非常に深い関係があったのが、小池・杠(ゆずりは)である。
 横田町誌の中で、曾根研三という人が、同氏について調査している。

 杠氏(31代までは小池氏と称す)

(大催代数記と同古文書・岩屋寺古文書・馬場八幡宮等棟札より作成)「遷年号」は馬場八幡宮の遷宮の年、()内は願主あるいは地頭名、「年号文書」は杠所蔵文書有のこと(途中一部省略)


1、久朝(刑部(けいぶ)) 建久7年 妻田村氏
7、久仍(ひさのり)(中務(なかむ)正(しょう)) 遷弘安4年(比丘尼妙音)これまでは妻は京都より
8、源太ェ門(久康)
14、宗左エ門(久豊) 遷至徳2年(山名時義)
18、久左エ門(久春) 遷永享2年(三沢信濃守為忠)

20、三良左エ門(久平) 長禄元年の文書2通
21、二良右ェ門(久長) 遷文明8年(三沢遠江守為忠)
22、二良右ェ門(久宗 宗左エ門)
23、七良左エ門(久近) 遷永正17年(三沢為国)
24、長右エ門(久澄)
25、治良右エ門(久元) 享禄4年、天文元年の文書岩屋寺本堂作事奉行の一人 (大催次良右エ門)

26、治良右エ門(久家) 遷天文11年(三沢為清)天文9、10年の文書、
天文8年岩屋寺阿弥陀堂建立、
本尊十一面観音修復す伊賀多気神社本願
27、六良右エ門(重久) 遷永禄3年(尼子晴久)天文13年、天正2年の文書
28、太良兵衛(久景)
29、二良右エ門(久国、七良兵衛)
遷天正14年(三沢為虎)天正15,19年の文書、
天正17年三沢氏芸州へ久国慶長記の筆者
30、甚十郎(吉久) 慶長4、10、14年の文書

31、又右エ門(久如) 遷元和6(堀尾吉晴)天和6年の文書大馬木村杠より養 子、これより小池姓を杠姓とし、法華宗となる南枝寺 の開基伊賀多気神社本願(寛文7年)代々庄屋を務める。
32、又右エ門(久弼、長次郎)遷正保3年(松平直政)免地10石余あり
33、市右エ門(久次)
34、助三郎(久勝)
35、久左エ門(久慶) 持高のうち免地25石

36、市右エ門(久成)
37、市右エ門(久只)
38、六良右エ門(久富)
39、市右エ門(久安)
40、宗左エ門(富明、助三郎) これまで代々大催を名乗る(幕末)

 詳細は同誌を読んでもらえればよいが、どちらにしてもこの地区については、特殊な歴史的流れがあるようだ。

【写真左】妙巌寺から南に移動した位置から見た小国城
 小国城はこの写真の左側になる。
この写真の手前の屏の左に下に示す、「小国殿塚」が建立されている。
【写真左】小国城の東端部の平坦地に設置されている「小国殿塚」の石碑
 当日この石碑をじっくりと眺めていたら、この東向いの民家の奥さんが出てこられ、この石碑について質問した。

 奥さんの話では先ごろ亡くなった父が随分とこの殿塚のことについて、自分たちに説明していたのだが、全く自分たちは興味がなく、亡くなってからこうして質問されると、ほとんど何も記憶しておらず、なんとも申し訳ない、とのこと。
 ということで、何のキーワードになるものも入手できなかった。
【写真左】小国殿塚その2
 この殿塚が設置されている場所は、現在空き地のようなスペースになっているが、周辺の痕跡を見ると、館跡らしき雰囲気がある。

【写真左】殿塚の裏側
 刻印された文字が大分欠けているため、判読が困難だが、上の方は
「坪倉七○○」とも読める。

2009年6月8日月曜日

鬼神神社上へ砦跡・(島根県奥出雲町大呂愛宕大仙)

鬼神神社上へ砦跡

●登城日 2009年3月15日
●所在地 仁多郡 奥出雲町 大呂 愛宕大仙
●時代 中世 時代不明  ●遺跡種別 城館跡 
●指定 未指定
●備考 中世後期頃、臨戦時に使用の砦か?支尾根部
●遺構概要 曲輪 五輪塔 宝筐印塔2
(島根県遺跡データベースより)
【写真左】鬼神神社上へ砦の遠望
西側から見たもので、写真の左端から右端まで尾根伝いに遺構が残っている。






◆解説(現地本殿の説明板より)

“鬼神神社
鎮座地 仁多郡横田町大字大呂字小国2058の2番地
御祭神 五十猛(いそたけるの)尊(みこと) 素盞鳴(すさのうの)尊(みこと) 他三桂尊
御陵地 総面積22.4アール、周囲175m、築土高10m、形状長円墳
祭礼日 例大祭10月10日、龍燈祭(御陵墓大蛇の魂 祭)8月7日
【写真左】鬼神神社の石柱











御由緒


 天平5年(733)撰上の出雲風土記の「爾多支枳(にたじき)小国(おくに)」は、この地を指し、大呂は大風呂で大きな森の意で、神亀3年(726)大呂に改名、正倉が置かれてこのあたりの中心を成じ、延喜式(927)所載の官幣小社「伊賀多気神社」は当社である。


 古記録に、40代天武、54代に仁明、55代文徳帝の時、朝廷より幣帛(みさぐう)が奉られ、仁明天皇嘉祥4年(851)神階正六位に叙せられたとある。


 正安4年(1303)三沢氏地頭として雨川へ入部、三沢郷を経て横田郷藤ケ瀬城(本城)を移すも、永正16年(1519)三沢為国のとき、尼子経久に攻略され、大呂城、竹崎城、船通寺、観音寺いずれも兵火に罹(かか)り「上宮伊我多気神社」も消失した。
【写真左】鬼神神社本殿
写真の左斜面が砦跡の一部になる










 御祭神は、霊力絶大で、「威武(いたける)」の神、邪気、怨霊、折伏(せつふく)の神として鬼神伊我武大明神と称えた、とあり、大永年間、三沢為忠、その子為国、永禄年間三沢為清、尼子晴久、寛永年間堀尾忠晴等が建立寄進した。

 慶長九龍集甲辰菊月吉祥日、出雲国造千家元勝撰「出雲国仁多郡小国里鬼神大明神縁起」1巻(1601)に、


 出雲国仁多郡横田荘小国里上宮船燈山鬼神伊我多気大明神者祭祀素盞鳴(すさのうの)尊(みこと)、 五十猛(いそたけるの)神也延喜式云五十猛(いそたけるの)陵地伊我多気社是也千然中世錯乱社号単称鬼神大明神也抑太古素盞鳴(すさのうの)尊(みこと)師其子五十猛(いそたけるの)神降到新羅国の挙白此地吾不欲居遂以埴土作舟乗之東渡到出雲国簸川上所在鳥上峯其舟成岩千今在社前止庶民崇敬岩船大明神也、焉初五十猛(いそたけるの)神天降之時多乃樹種而下然不殖韓地蓋以持帰遂始自築紫凡大八州国之内莫不播殖而青山焉一宮記白大己貴命兄五十猛(いそたけるの)神也 云々


平成10年8月7日


鬼神神社社務所
鬼神神社由緒額一面 願主 畑 茂


平成10年8月7日建立“
【写真左】砦側に上った位置から北側を見る
鬼神神社側の北に尾根伝いに登る道があり、遺構の大半はこの位置から北にある。前方に見えるのは社跡(愛宕社か)。






◆横田の藤ケ瀬城から東へ斐伊川沿いに約4キロほど行くと、大呂という地区がある。このあたりにいくと斐伊川の源流に近いが、昔から良質の砂鉄がとれることから今でも「タタラ」を操業をしていることろがある。

●斐伊川源流は鳥取県との間にある「船通山:1142m」になるが、その北側を走る印賀奥出雲線(108号線)の万丈峠を越えると、伯耆(鳥取県)に出る。この位置から南下すると岡山県新見市へは予想以上の近距離になる。藤ケ瀬城の稿で特記していなかったが、中世横田の中で、具体的な史料は乏しいものの、奥出雲は伯耆、備中とのかかわりが強いようだ。

●さて、この大呂地域は、島根県遺跡データベースによると、「砦」も含めた山城の箇所が5,6か所ある。その中から今回取り上げるものは「山城」としての条件は満たさない「砦」であるが、写真以上に見るべきものがあった。
【写真左】社跡を越えた最初の郭付近忠魂碑のような石碑だが、文字がはっきりしない。








●上段の「由緒」にもあるように、鬼神神社は延喜式所載の官幣小社「伊賀多気神社」であったという。

 藤ケ瀬城主・三沢為国のとき、尼子経久に攻められ、この鬼神神社(上宮伊我多気神社)も焼失した、とある。当時から山麓には社が祀られていたものの、その後山にこうした砦を設け、戦時に備えていたようだ。

●県遺跡データでは、曲輪、五輪塔 、宝筐印塔2 とあるが、五輪塔や宝篋印塔を現地で確認できなかった。
 現地の形状から考えて、山城という形式よりも確かに砦の雰囲気はあるが、尾根部先端部の数段の郭の施工には見るべきものがある。

 この砦から西に正対して、小国城という山城があるが、上記の「由緒」に記されている「大呂城」というのが別名かもしれない。
【写真左】上記の位置からさらに北へ一段下がって延びた郭
 当該砦の中では一番遺構として残っている場所で、幅は5~10m、長さは30m前後か。

 なお、この先端部は切崖状態で、その下の道をはさんで、北に「山根上へ砦」という要害もある。ただ、この砦の確認はしていない。

【写真左】五十猛尊御陵地の石碑
この砦中心部の最南端(尾根を登って行く)の削平地に祀られている。
規模は、総面積2,267㎡、築土高さ10m、御陵型:長円墳。
【写真左】鬼神神社上へ砦から西方に小国城を見る
 前述した由緒に記載されている「大呂城」がこの小国城と思われる。