2009年4月30日木曜日

宇山城(うやまじょう)跡(島根県雲南市木次町寺領宇山)

宇山城(うやまじょう)

●登城日 2008年3月28日
●所在地 雲南市木次町寺領 宇山 
●築城期 中世
●遺跡種別 城館跡 
●遺構概要 郭 帯郭 虎口? 
●築城主 宇山飛騨守久信
●標高 212m
●遺跡の現状 山林  ●遺構概要郭 帯郭 虎口?
●備考 別名 上宇山城・日登城

◆解説
【写真左】宇山城登山口
 この城は木次町寺領というところにあるが、登城口は北側の上宇山というところにある。

 写真の位置にあるカーブした広い道に駐車して、ここから徒歩で行く。途中一軒の民家があり、この家の前を通って割と広い林道を登る。

【写真左】登城途中の登り道
 登城口から本丸までの距離は1キロもなく、6、700m程度だったと思う。

 途中から少し傾斜のついた上り坂になる。下草が刈ってあれば、途中の遺構も確認できたかもしれない。

【写真右】登城途中の標識
 距離にすると300メートルぐらいだろうか、少し登り道になり出した所に右の標識があり、この坂の上に本丸跡がある。
【写真左】本丸跡にて
 しばらく手入れしていないような下地で、3,40センチ程度の草や笹が茂っていた。

 写真のように本丸跡に「宇山飛騨守居城跡」という木製の碑が建っている。
【写真左】本丸跡に建つ祠
 なにも銘記されていない祠だが、宇山氏の関係のものだろう。


【写真右】同じく本丸跡にある石像
 この場所には、上記の祠とこの石像の二つがあるのみで、あとは草木が多いためよく確認できなかったが、おそらくこれ以外のものはないと思われる。

 なお、本丸の大きさはさほど大きくはなく、長さ20~30m程度で、幅が10m前後といったところか。訪れた時期が悪かったのか、雑草の丈がだいぶ伸びていて、周囲の境部分が確認しずらい。

【写真右】本丸跡から見た山
 現地では磁石を持ってきていなかったので、確信はないが、おそらく写真のとがった山は、地図で調べると、「室山(260メートル)」という山と思われる。

 この山も山城らしい形をしているが、場合によっては山岳信仰としての山だったかもしれない。


【写真左】宇山城を降りたところにある展望台(宇山神社?)からみた宇山城遠景
 この場所には何も書いてなかったが、本丸で見た灯籠とよく似た灯籠が同じくこの展望台にあり、また祠もあったことから、この神社は宇山氏を祀ったものと思われる。


 規模は小ぶりの部類に入るが、周辺の地形に変化があり、本丸にたどりつくまでには天然の要害を利用した箇所があるようだ。

 位置的には以前に紹介した多久和城から、大東の三笠城・牛尾城へ向かう道の途中にある。

 また、同じく前に述べた「地王峠・日登の戦い」の際、当城が何らかの役割を果たしていたことは間違いないだろうが、手元にある資料から見る限り、当城の記録は見いだせない。


 宇山城主・宇山氏について
 ※参考文献・新雲陽軍実記:妹尾豊三郎編著)

 当城の城主であった宇山氏は、宇多源氏佐々木氏の一族で、佐々木六角氏から別れたとされている。宇山氏が出雲に入った時期は、はっきりとはしていないが、一説には宇山信定(何代目かは不明)のころとされている。ただこの時期は、観応・文和年間で南北朝期争乱のときであるから、なんともいえない。

 確証はないが、筆者としてはもっと時代が下った、応永6年(1399)の足利義満が佐々木高詮を出雲守護職に任命したころではないかと思える。


 どちらにしても、宇山氏は佐々木氏の嫡流であったことから、戦国期には尼子氏の中でも筆頭家老で、「尼子分限帖」によると、尼子氏の最盛期にはその禄高も18万石という他の一族とは別格の扱いであった。

 宇山飛騨守久信は、特に尼子時代の経久、晴久、そして義久の三代にわたって忠勤に励んだ。しかし、晩年は尼子氏の中でも台頭してきた山中鹿助立原久綱など若い世代と意見があわなくなる。

 永禄3年(1560)12月、尼子晴久が急死する。そのあとを引き継いだのが晴久の嫡男・義久で、当時20歳である。晴久が亡くなった2年後の永禄5年、毛利元就が綿密な計画のもとに出雲侵攻を開始する。

 このころから尼子の重鎮であった牛尾豊前守・亀井秀綱・河本隆任・佐世清宗・湯惟宗・牛尾遠江守幸清らは、続々と元就の陣地である松江の洗骸(荒隈)に投降していく。


 衰退していく尼子氏に見切りをつけた判断もあったようだが、若い義久の求心力・人望のなさがそれに拍車をかけていたという見方もされている。

 そうした中にあって、宇山飛騨守と中井駿河守だけは投降せず、最後まで尼子氏を支えようとした。ところが、尼子義久の側近に、大塚與三右衛門という奸佞(かんねい)の武士と、角都(かくいち)という座頭がいて、功ある者を妬み、事あるごとに讒言し、それを義久が鵜呑みにするため、非業の最期を遂げるものが相次いでいた。

 前段の重鎮が元就に降ったもう一つの理由が、実はこの二人の存在でもあったという。一説にはこの二人は尼子氏滅亡の際、毛利氏から恩賞を受けようとしていたのではといわれている。

 結局、義久は奸佞武士・大塚と座頭・角都の言を信用してしまい、宇山飛騨守は討手である大西重兵衛と本田豊前守の前で、不審を晴らすため、無念の自害をする。

 しかし自害の前に、彼が訴えた二人の非道を大西・本田両名が悟り、それを義久がやっとこの段階で初めて目覚め、大塚と角都は誅殺された。

 義久は、宇山飛騨守と嫡男弥四郎父子を生害させてしまったことを悔やみ、落涙したという。

 なお、飛騨守の二男は幼少で、尼子方家臣・真野兵衛尉が介抱して、密かに毛利方陣地・洗骸にいた米原平内兵衛(斐川高瀬城主)に預けられた。このあと米原氏が「宇山」の名を絶やさぬよう取り計らったという。

 この処置があったことから、今日でも雲南周辺には「宇山」姓を名乗る人が残っている。



◎関連投稿

美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1
宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山)
三刀屋尾崎城 その2 地王峠・八畝の戦い

2009年4月28日火曜日

御城山城(おしろやまじょう)跡(島根県雲南市三刀屋町殿河内

御城山城跡 (おしろやまじょうあと)

●登城日 2008年11月14日 (金曜日)晴れ
●所在地 雲南市 三刀屋町 殿河内 御城山 ●時代 中世  ●遺跡種別 城館跡 
●遺跡の現状 山林  ●土地保有 民有地  ●指定 未指定
●標高 154 m
●備考 一部発掘調査。
丘陵先端「椎ノ木」の地名。古墓あり。宝篋印塔がある。
●遺構概要  郭(戦国時代) 井戸(戦国時代) 堀切(戦国時代) 虎口(戦国時代)搦手(戦国時代)    
宝篋印塔 郭 腰郭 堀切 虎口 櫓台
(以上島根県遺跡データベースより)


宇佐輔景(参考:三刀屋町誌等)

●建武2年(1335)、後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏が、12月箱根の竹之下で新田義貞らを降し、さらに敗走する天皇軍を追って、山崎で一大合戦を行う。
以前にも記したように、このとき山陰からは尊氏軍に属した武将が多いが、名和長年のように最後まで天皇に着いた武将もいた。知名度からいえば、長年ほどではないが、今回取り上げる御城山城主だった「宇佐輔景」もその一人である。

●三刀屋家文書によると、軍忠状の中に、「出雲国三刀屋太田荘藤巻村地頭・佐兵衛尉宇佐輔景」という記録が残っている。

 三刀屋町誌によると、彼の系譜は「三刀谷(屋でない)系図」から見ると、諏訪部助親(扶重の祖父)の弟に助清がおり、その子が孫太郎扶景である。同誌によると、この孫太郎扶景が、「宇佐輔景」ではないかとみている。

●宇佐輔景は、件の山崎の合戦において、名和長年のもとで奮戦して数々の軍功をたて、天皇が比叡山に逃れた時も同行し、左衛門尉に任じられた。その後の消息は史料がないため、長年とともに戦死したかもしれない。

●さて、この当時、三刀屋の諏訪部一族はほとんど尊氏派についていた。それにも関わらず輔景だけ、天皇方についたわけである。


 一族であるにもかかわらず、彼一人が別行動をとったということである。

 そのことと関係するか分からないが、諏訪部一族であれば、当然輔景も、「諏訪部輔景」ということになるが、あえて、姓を「宇佐」としていることもその理由の一つかもしれない。
【写真上】御城山城遠望
 本丸があるのは右側の山らしい。

御城山城と宇佐輔景顕彰活動

●ところで、輔景の居城といわれている「御城山城」は、三刀屋尾崎城の麓を流れる三刀屋川をさらに3キロほど上ったところにある。

●宇佐輔景については、大正7年に刊行された「飯石郡誌」によって紹介され、その忠臣ぶりを讃えられたこともあって、2年後の大正9年、「宇佐輔景遺跡保存会」が結成される。
 そのあと当時の県知事を迎えて「宇佐輔景公贈位(従四位)報告祭」が行われる。特にこの一連の顕彰活動の中心となったのが、医師で県 議会議員でもあった藤原薫である。
【写真左】登城した東北部の畑の脇に見えた宝篋印塔らしきもの
 この付近には不揃いな墓地が点在し、その中にポツンとひとつこの墓が見えた。鎌倉期のものか、戦国期のものか不明





●彼は宇佐輔景によほど心酔したと見えて、ついには宇佐輔景の唱歌「宇佐輔景」を自ら作詞し、作曲は当時東京音楽学校にいた広田龍太郎が手掛け、文部省認可ともなった。


現在地元の80歳前後の方なら、小学校時代にこの歌を歌っていたという。

【写真左】同上
 周辺にも宝篋印塔もしくは五輪塔の破片のようなものが転がっていた。最近ではほとんど手入れされていないようだ







●さて、当日同地を探訪し、目の前の山であることは確認できたが、登城口が分からず、最初に東北側の段々畑あたりから登りはじめた。しばらくすると途中から、進入するような隙間がないほどの藪こぎになり、断念していったん下まで降りた。

すると、途中から下の畑で仕事をしていたご年配の方がおられたので、登城口を訪ねた。
「登城口は、あるには、あるが、口では説明できない場所だ。それより、あんた、じつは心配して居った。あの山付近にはイノシシのワナをかけているところがかなりあってな、もしそれに足を挟まれたら、えらいことになるところだった。」と云う。

山城を探訪している旨を伝えると、
「きょうは無理だが、今度来られたら、ワシが案内してあげるから」と御親切な言葉。しかし、次回がいつになるのか、当方もわからないので、
「いや、そういうお手間までおかけしては恐縮ですので、よろしいです。」
と丁重にお断りをする。
このおじいさんも、宇佐輔景の歌を子供のころ歌った覚えがあるとのこと。

【写真左】土塁跡をうかがわせるもの
 たまたま登りはじめた東北部の畑地が、よく見るとこのあたりから城郭の遺構を残した地形に見える。







◆結局、現地の本丸など城郭までは踏み込めなかったが、それ以上に、城主だった宇佐輔景という人物と、彼を顕彰しようと尽力した大正時代の地元の人々の足跡も、一つの歴史となっていることを強調しておきたい。

2009年4月26日日曜日

神代城(島根県雲南市三刀屋町神代)

神代城(こうじろじょう)

●所在地 島根県雲南市三刀屋町神代 尚免
●高さ H280m
●備考 神代砦
●遺構 郭・腰郭・堀切等
●登城日 2008年12月10日

◆解説(参考文献『三刀屋町誌』等)
 神代城については、「三刀屋町誌」に次のように書かれている。

“神代古城山(こうじろこじょうざん) 伝説

 毛利の臣に神代大炊介(こうじろおおいのすけ)という豪勇の士があった。大炊介はもと大友宗麟の家臣であったが、いささかの事情があって、そこから追い出され、毛利に身を寄せた武将だといわれている。

 大炊介は、永禄12年(1569)7月17日、石見銀山城攻防の戦いに奮戦している。その居城が神代の古城山である。
【写真左】神代城遠望
 東側から見たもの。
神代城が所在する山はさほど大きなものではない。






 
 館は現在でも殿畑の地名があるが、神代の上土井(当主・奥田誉之)から下土井(当主・奥田清人)の宅地一帯にあったといわれる。

 ここからは幕末の文久年間(1862~3年頃)、金貨銀貨その他薄茶碾臼(ひきうす)、杉の扉などが出土し、昭和初期には神代の人家に保管されていると「中野村史」は記している。

 当時の居城がすべてそうであったように、神代の場合も館は麓の平地で、館の後山が戦時に立て籠る城となる。
【写真左】神代城の位置
 地元に設置してある案内図を元に管理人によって図示したもの。
 案内図そのものが大分古いため、少しわかりにくいかもしれない。


 
 後藤政義氏宅の後ろの山頂には、5畝歩余の平地がある。昭和3年、御大典記念事業として登山道が整備され、城址には神代大炊介の記念碑と桜樹が植えられている。

 大炊介の墓地も下土井の墓地付近と推定されている。しかし、大炊介の勢力範囲、在城期間、家臣団、その他一切のことは解っていない。
 また、大炊介との関係は不明であるが、神代には「国ヵ墓」の地名がある。現在の神代神社のあたりである。

 伝説によれば、掛合西谷の城主・長門守(長門守伝説については「徳利地蔵」の項でも触れている)が、病気のため湯村温泉で湯治せんと、中野から六重、神代、田井へ通ずる車道を造られた。

 中野の南の山頂より徳坊主峠を越えて、六重粟谷に入り、神代神庭に出て、今の神代神社付近まで来て、遂に病没したという。長門守の墓を信心すると霊験あらたかというので、参拝する者が多かったという。
    (「中野村史」より)”
【写真左】下土井の上にある削平地
 近代になって造成された削平地と思われるが、その奥に当城が見える。
【写真左】東麓側から見た切崖
 登城道が分からなかったため、しばらく廻りをウロウロしていたら、この光景が飛び込んできた。
 近くから見るとなかなか要害性がある。
その後、南側に踏み込む箇所があったので、そこから向かう。
【写真左】馬場跡か
 郭としての機能もあったと思われるが、主として馬場の目的として使われたのだろう。
 ただ、周囲は大分重機で改変されたようだ。
このあと、尾根筋を基準にさらに北に進む。
【写真左】郭
 当城最大の郭で、上記馬場跡から尾根伝いに進むと、とたんに高低差のある斜面に出くわす。ここを降りるとご覧の広い削平地が現れた。
 植林してあるため、昼間でも薄暗いが、この郭はかなりの規模を持つ。



大炊介は毛利方か尼子方か

 ところで、神代大炊介なる武将は以前からきになっていた武将である。
 というのも、『三刀屋町誌』(「中野村史」)では、もともと豊後(大分)の大友宗麟(大友宗麟墓地(大分県津久見市大字津久見字ミウチ)臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)参照)の家臣であったが、「いささかの事情があって、大友氏から追い出され、毛利氏に身を寄せた…」と書かれている。

 「いささかの事情」とは、どういう内容だったのだろう。しかも、毛利に身を寄せたといって、安芸ではなく、出雲に来ている。それも山深い奥出雲である。
 そしてさらに混乱させるのは、下段の写真にもあるように、石碑に「尼子(の)将」と刻銘されていることである。こうなると、どちらについた武将なのかよくわからないことになってしまう。
【写真左】尾根筋最高所
 先ほどの郭を通り過ぎ、不定型な尾根を進むと、最高所と思われる箇所にでた。
 熊笹の間に何か石のようなものが見える。
【写真左】石碑
 「尼子将 神代大炊介」と刻銘された石碑を発見。
 これが、昭和3年に建立されたものだろう。

 なお、この箇所が主郭と思われるが、4,5m前後の規模で、郭というより物見台もしくは基壇として使用されたのかもしれない。
【写真左】神代神社参道
 神代城から約1キロ余り南下したところに祀られている。
 大炊介との直接の関係は不明だが、戦国期には何等かのかかわりがあったものだろう。
【写真左】神代神社 本殿





多久和城 その2 多久(和)氏など

多久和城・その2  多久(和)氏など


【写真左】登城途中、下から見た本丸













 前稿で多久和城の城主であったと思われる「多久和左京亮」を取り上げたが、この人物の出自も定かでない。

ところで、多久和城関係について調べていたところ、サイト「consultant takuwa online shop」というところに、“多久和姓について”というものがあり、そこに下記のような内容が記されていた。


”多久和”姓について


 ”多久和”姓とは、かわったものです。しかし、いわれは確かなものです。

すなわち、明治に入り、苗字の使用が認められると、出雲平野・平田の御百姓さんは、その昔、山城・多久和城にかり出された経験より“多久和”姓を名乗るようになったものです。

その事は 平田の実家の古文書に明記されていた事を思い出されます。
実家の祖父多久和新四郎は、多久和城を保存する様に明治・大正時代に動いたときもありました。(以下略)
【写真左】本丸跡に設置された祠など
社日社、秋葉社、大神岳社という3つの祠があり、社日社は尼子の関係からと思えるが、他の二つの由来が分からない。






 多久和、あるいは多久という人物や地名に多いのは、現在でも旧平田市(現在出雲市)である。確かな資料がないため、これから記す内容は、根拠がほとんどないが、私なりに多久(和)氏関係の動きを想像してみたい。


  1. まず、冒頭に挙げた多久和右京亮なる人物の先祖は、もともとこの 平田地域の国人領主ではなかったかということ。
  2. そしてその居城は檜ヶ仙城(島根県出雲市多久町)であり、多久和氏の中の一族が尼子方に属し、尼子清定の時代に知行安堵された。
  3. その後、多久和城の築城に当たって、実家である 平田・桧ヶ仙城下の農民が駆り出されたのではないだろうか。
  4. 戦国末期になると、実家である平田・桧ヶ仙城も毛利方の手に落ち、残った家臣らは南の斐川東 部の宍道湖周辺を新田開発したといわれている。

【写真左】桧ヶ仙城(出雲市平田)麓より桧ヶ仙城遠望










 ところで、この新田開発した場所は、現在の斐川町内坂田地域などだが、実は多久和氏そのものも、元は以前に述べたように、現在の滋賀県長浜市にある「坂田」というところからきている可能性が高い。



 そのときの主だった一族名としては「松本一族」がある(多久神社縁起より)。

時期はなんともいえないが、おそらく論功行賞などでやってきた鎌倉期(承久の乱、もしくは後醍醐天皇の時代か)ではないだろうか。

どちらにしても、今となっては出自を判定する史料などがないので、繰り返すが、あくまで推測の域を出ない話である。  

2009年4月25日土曜日

多久和城(たくわじょう)その1(島根県雲南市三刀屋町多久和)

多久和城(たくわじょう)その1

●登城日 2008年4月23日
●所在地 雲南市三刀屋町 多久和
●築城期 中世 
●遺跡種別 城館跡
●築城主
●標高 140m
●遺跡の現状 畑地、山林 
●遺構概要 郭7(連郭式) 馬出曲輪 土塁 堀切 縄張り 郭 帯郭 土塁 堀切 虎口

【写真左】多久和城の登城口付近
 昨年(2008年)に登城しているが、地図で見る以上にアクセスに手間取った。カーナビは現地周辺に来たらあまり当てにせず、標識をしっかり見たほうがいい。 もっともこの城の案内標識は、当時(現在もか)ほとんど見なかったので、地元の方に聞きながら向かった記憶がある。
 写真手前は、地元自治会のゲートボール場で、その向こうが右から左へ登る多久和城の登城道である。


◆解説(参考文献『三刀屋町誌』等)
 三刀屋尾崎城から南の方に行くと、多久和という地区がある。この山間の中に多久和城という中規模な山城がある。以下、「三刀屋町誌」等を参考に紹介したい。

 現在合併により雲南市になった旧三刀屋町には、おもだった戦国時代の山城としては、当城や三刀屋城などを含め、約10ヵ所がある。このうち毛利氏の支配下になった段階での禄高は、三刀屋尾崎城の15,000石に次いで、当城は3,500石であったという。
【写真左】登城口その2
 このときは登城道の下草がこのあたりまでは刈ってあった。これから先は杉林の中に入るため、全体に暗い。






 さて、築城期は不明だが、応仁2年(1468)尼子清定の時代に、当時、多久和左京亮が支配していたという。多久和氏がもともとから住んでいた土着の豪族か、尼子家臣団の一人として派遣されていたか不明だ、と「三刀屋町誌」には記してある。

 以前、斐川町の高瀬城の米原氏棟札の稿で取り上げた、「大工・多久某」と何らかの関係があったものと私は思っている(いずれこのことについては取り上げたい)。

 当城の記録としては、落城したことが2回もあったと記されている。1回目は、天文12年(1543)で、このときは毛利方にあった本城常光が短期間のうちに降したという。
 2回目は元亀元年(1570)ごろで、尼子氏がいったん衰退したあと、尼子再興軍が三刀屋城周辺に出没したころである。このときの城主は誰であったかについては、二つの説がある。
 ひとつは、地元歴史家・速水保孝編著「出雲の歴史」によると、多久和山城守といい、もう一つは、「飯石郡誌」によると、高尾久友であるという。
【写真左】登城道その3
 途中から傾斜がきつくなり、しかも所々小さな落石がある。登城口から本丸まではさほど時間はかからず、20分程度だったと思う。




 当城の概要については、三刀屋町誌によると、つぎのように記してある

”山上には200㎡余りの削りならした平地があり、大仙智明権現(大神岳社)と、秋葉社、それに社日の三社が祀られている。左手前方の小高い山が、福谷城で、ここからは、はるかに中野城や、掛合の多賀城も見ることができる。右手前方、森谷の集落の奥地が城番谷で、大倉口下方の小高い山々と共に見張り台が置かれた地であろう。

 城番谷の上手の谷に、勝負迫(しょうぶさこ)と鎧迫(よろいさこ)という地名が残っている。戦いに敗れた落ち武者が、鎧を捨てて逃げたのでその地名があるという。
 大倉口の山上にはおびただしい五輪塚が残り、多久和城攻防の激しさを知ることができる。


 この城は、前面に飯石川が流れ、左右に大倉からの二本の小川と峠谷川が飯石川に注ぐ、下口の峡谷を一旦堰き止めれば、多久和盆地は一面の湖となって城を囲む、前方左右に突き出た段丘上に、防砦壁を設ければ難攻不落の堅城となろう。出雲国の山城の中でもかなり整った馬蹄形状の名城である。


 後方搦め手の中腹に、土地の人が「一計り」と呼ぶかなり広い三角形状の平地がある。自然の山の一部を残して土塁としているが、兵士一人一人を数えるのが面倒で、この地にいっぱい立ち並べて、一隊として編成したとの伝説があるが、ここは搦め手防御の最後の拠点であろう。城兵に給する食料も水も、ここを通って山上に運ばれたであろう。城前方の最も広い調練場跡に通ずる。”(以下略)

【写真左】途中に見えた堀切り
 どちらかといえば、小規模な山城だが、本丸周辺の形状が複雑で、今思えば形状がどういう形だったか判然としない。






 多久和城の名称については、私の記憶違いでなければ、確か地元の市場という地名から、別名「市場城」とも呼ばれていたはずである。
 この脇を通る狭い道(176及び272号線)は旧出雲街道で、戦国期から江戸時代まではこの道が主要道になっている。

【写真左】本丸跡
 三刀屋町誌にもあるように、全体に細長い形で、先端部に祠が設置されている。







 尼子・毛利・大内の時代からたびたびこの道が利用され、特に176号線ルートはそのまま北東に下って行くと、旧大東町を超え八雲・東出雲にたどりつく。この付近に行けば、富田月山城の西山麓・京羅木山へは目と鼻の先である。
 三刀屋尾崎城の位置も主要な地点だが、多久和城はさらに同城を補完する意味からも、戦略的に重要なものであったことが想像できる。



【写真左】本丸跡にある祠
左に、社日社、中央に秋葉社、右に大神岳社。
 本丸跡の周辺は整理されていたので、定期的に地元の方による祭礼などが行われているのだろう

城名備山城(島根県雲南市木次町里方)

城名備山城(きなびやまじょう)

●所在地 島根県雲南市木次町里方●築城期 中世
●築城者 不明(佐世氏か)
●標高 117m
●比高 80m
●遺構 堀切・郭・虎口・井戸等
●登城日 2009年2月28日

◆解説(「日本城郭大系第14巻」等)
 前稿「三刀屋尾崎城」の位置から北に向かうと、斐伊川と三刀屋川の合流点に差し掛かる。この位置から北に聳える妙見山の南麓部に設置された山城である。
 この城砦については、大分前から存在は知っていたが、中世の山城というよりも、地元の古代の記録である「出雲風土記」に出てくる神話の山としての知名度が高く、登城前は余り期待をしていなかった。
 ところが、実際に登城してみると、予想に反し、山城として最低限の遺構を備えたものであった。

【写真左】城名備山城
 左の高い位置に本丸がある。











 現地の説明板より

城名備山城跡
 この山の名は、奈良時代(710~794)に書かれた出雲風土記に「所造天下大神大穴持命(あめのしたつくらし おおかみおおなもちのみこと:大国主命)が、八十神(従わぬ多くの神々)を討とうとして城を造られたところから、「城名備(きなひ)山」と名をつけられたとされています。

 中世になると、本格的な山城が築かれるようになり、山頂付近には、山城の名残りを留めるいろいろな跡がよく残っており、山城の姿を今日に伝え、木次町の代表的な史跡となっています。
 平成14年3月
 斐伊活性化協議会”

【写真左】駐車場
 斐伊川沿いの西側にある終末処理場の脇から登る道が設置されている。車でこの駐車場まで行ける。







 次に、城名備山の尾根伝いに延長された北に聳える妙見山についても、現地の説明板があるので紹介しておく。

妙見山遺跡
 妙見山遺跡は、木次町・三刀屋町公共下水道終末処理施設建設に伴って、平成5~6年に調査された祭祀遺跡で、妙見山から派生して斐伊川を眼下に見下ろすこの尾根上に所在しています。
 山岳信仰の舞台となった妙見山遺跡は、その名が示す通り、妙見信仰、すなわち北斗七星を祀る信仰といわれ、中世山岳仏教の参拝地でもありました。
【写真左】堀切
 駐車場から歩きだすとすぐにこの堀切が出てくる。2,3回堀切をアップダウンすると、すぐに郭が見えてくる。





 平安時代初期、奈良薬師寺の僧・景戒によって記された「日本霊異記」の中で、妙見菩薩に灯明が献じられたとあるように、遺跡からは1万点を超える中世土器が出土しており、この中には灯明皿として使われた杯や、皿が多数含まれています。
 掘立柱建物も5棟(推定)確認されており、鉄釘のほか、通常の建物には使われない飾り釘も出土していることから、宗教施設が存在していたと思われます。
 また、遺跡内からは、鉄滓(てっさい)や、焼土も見つかっており、この尾根上で宗教施設にともなった小鍛冶が行われていたことも考えられます。

【写真左】第2郭
 最初に南北に長い郭がある。長さは2,30m程度か。










 時代は平安時代、9世紀から12世紀にまたがっており、この地が長い山岳仏教の修行信仰地として続いていたことをうかがわせます。ことによると、中世には、妙見山と並んで、かつて42もの僧坊があったと伝えられ、木次町字谷、及び寺領地内に所在する「伝室山寺跡」の二つの参拝地が存在してた可能性も考えられ、中世びとの厚い信仰心がうかがわれる貴重な遺跡でもあります。

 平成13年12月 木次町教育委員会”

【写真左】第2郭から本丸を見る
 第2郭と本丸の段差は2m程度で、階段も設置されているので歩きやすい。
【写真左】本丸その1
 現在は東南に向かって開放され、西側は立木が生えているため全体の姿は分からないが、戦の際はほとんど、東南の方に重きを置いていたと思われる。

【写真左】本丸その2
 本丸の底面はほぼ平坦になっており、後段に示す西側の下の郭同様、掘立柱の建物があったと考えられる。
【写真左】本丸から西側の下の郭を見る
 規模としては、この下の郭が大きいようだ。
 位置的にもこの場所が一番重要な位置になる。
 向うに見える川は斐伊川だが、戦略的にはこの川が濠の役目を果たしたものと思われる。
【写真左】本丸から南方に三刀屋尾崎城を見る
 手前に見える川は、斐伊川の支流・三刀屋川
【写真左】本丸側から北方に妙見山を見る
 この日、当山の途中まで登ってみたが、途中から藪こぎになったため、断念した。

2009年4月17日金曜日

三刀屋尾崎城 その3 三刀屋氏その後

三刀屋尾崎城 その3



◆解説(参考:三刀屋町誌)
 前稿で取り上げた尼子氏の滅亡(のち山中鹿助らが再興を企てるが)のころ、三刀屋氏や三刀屋郷周辺の動きはおよそ次の通りであった。

三刀屋氏のその後

 三刀屋氏は当然地元の三刀屋郷を安堵されるが、このころから三刀屋氏(久扶)は、元就に全幅の信頼を得ていなかったようである。

 三刀屋郷の南方にある掛合郷(旧多禰(たね)郷)は、一時元就の嫡男・隆元が駐在していたが、隆元は後に急死し、掛合郷のうち、坂本村を山内通定の家臣・田辺宗左衛門(後の鉄山師・田部長右衛門の一族と思われる)が治め、また殿河内村を井上八郎右衛門が新給地としてあてがわれる。

 三刀屋郷の南東部にある多久和郷については、尼子方だった赤穴久清が三刀屋久扶の説得によって毛利方に降った際、その恩賞としてあてがわれる。ただし、この郷の一部に尼子方の支配する部分も残存していたらしく、久清にとっては中途半端な恩給地であったようだ。
【写真左】三刀屋の町にある「三刀屋天満宮」
 社伝によれば菅原道真公、太宰府へ配流の途中、先祖・野見宿禰の霊廟に詣でるため当地に数日間滞在したという。公が筑紫にて薨去の後、里人がその徳を慕って小祠を建て梅を植えて祀っていたが、三刀屋城主・諏訪部弾正為弼(10代)が、守護神として城内天神丸に移し祀った。

 久扶(14代)まで奉祀していたが、天正16年(1588)改易の際、元天神の地に移し、旧族・村人たちの氏神として奉斎した。(以下略)


 熊谷郷は元々三刀屋久扶の祖父・忠扶が明応9年(1500)買取り、大永8年(1528)に尼子経久から改めて安堵された地である。その後一時三刀屋氏の手から離れたことがあったようだが、久扶からの申請により元就から安堵されている。
 ただこの支配者については、熊谷新右衛門がもともと治めていたことや、その後元就の家臣・小川勝久に攻め落とされているので、三刀屋氏がこの郷の領有範囲をどこまで確保していたかははっきりしない。

 さて、その後山中鹿助らによる尼子再興の動きが始まる。永禄12年(1569)6月、尼子再興の目的のもとに集まった軍勢は約6千といわれる。この中には純粋に尼子に心を寄せる者もいたが、報償目的の者もいたらしく、このため鹿助らはその資金を獲得するため、強盗まがいの行為を繰り返したという。そして、一般的な戦の形態を成した戦いもあったが、後半はほとんどゲリラ的な戦闘行為のくりかえしの様相を呈していた。

 三刀屋近郊で行われた主だった戦に、「日登の合戦」と「多久和城の攻防」がある。日登は雲南市木次町にある地区で、永禄12年の暮、この地には毛利方となった三沢氏が詰めていた。そこへ山中鹿助や立原らの尼子再興軍2,000が攻めてくる。その報を聞きつけた三刀屋久扶と市川経芳らの軍が援軍に駆けつけ、最終的には引き分けたという。

 ちなみに、三沢氏、三刀屋氏及び市川軍らはいずれも当主本人は、九州を転戦中で、地元出雲の各氏の手勢のみであったことから、善戦した方といえる。

 多久和城の攻防については、いずれ当城の投稿の際、改めて記したい。

【写真左】本丸跡にある記念碑

 昭和57年に、三刀屋城主の後裔といわれる人(山口県在住)が当地に来られ、先祖の地の発展を祈って多額の寄付をされた。そのことを記した石碑である。



その後の三刀屋氏

 さて、すこし端折ってしまうが、尼子軍が完全に滅んだあとの三刀屋氏の動向について少し触れておきたい。

 尼子の滅亡後は他の出雲国人領主と同様、毛利氏の配下として活躍する。特に毛利氏ものちに秀吉と和解し、九州征伐に協力する。三刀屋氏に関係する記録を抽出すると、天正14年(1586)の春、秀吉からの要請で、九州征伐を毛利軍が行った際、小倉城攻めの際、苦戦をしいられ、久扶配下の者17人が討死している。

 また翌天正15年の春、秀吉自ら九州に下り、直接指揮をとって島津義久を降したが、秋になって、豊前・肥後に一揆がおこり、吉川広家(このころ吉川家は元春、元長父子が亡くなり、元長の弟である広家が跡を継ぐ)が討伐に向かった。このときの軍勢の中に、三刀屋久扶と嫡男・監物がいた。

 さて、天正16年7月、毛利三家(輝元・吉川広家・小早川隆景)が、秀吉に謁見するため上洛する。この上洛に際して、三刀屋久扶も同行したようだ。そしてその折、聚楽第で徳川家康謁見したといわれ、このことが、後に輝元の耳に入り、「久扶に二心あり」と疑われる原因となったといわれている。

 そして、最終的には久扶の代に、三刀屋氏が三刀屋郷を追われてしまう。その原因や経緯には様々な説がある。

 その一つとして、史実かどうか断定はできないが、「伯耆誌」という江戸時代に著されたものによると、久扶は仏門に帰依して近松と号し、あるとき(天正16~17年)京都に上ったという。それを聞いた黒田如水は、家康に逢うよう勧めた。しかし、久扶は断った。今度は細川幽斎が重ねて要請したので、やむなく会見した。そのことを毛利に密告され、天正18年9月9日、三刀屋を退去したという。

 その後、京都に上って吉田に閑居していたが、一時石見銀山に住んだこともあるらしい。その間、家康から8,000石の禄高で誘われたが、これを断り、のちに八条宮の勧めで伯耆会見郡四日市村に来て、ここで亡くなった。墓は安養寺にある。

 もう一つの三刀屋氏の動向については、つぎのようなものがある。

【写真左】三刀屋尾崎城の東端にある「梅窓禅院」遠望
 当寺は、第11代三刀屋掃部助三郎の妹で、14代弾正久扶の伯母にあたる「梅之姫」が、一門の菩提を弔うため、明応元年(1492)3月、仏門に入り、三刀屋城の麓・案田の後谷の地に草庵を結んだのが始まりである。

 現在広島県内には「三刀屋」姓を名乗る人が点在しているが、その先祖のほとんどが同県の大朝町である。大朝町は吉川氏の本拠地である。「三刀屋町誌」の編著者もこのことを非常に重要視しているが、なぜ三刀屋氏がこの地に来たのか、それを解き明かしてくれるものがないため、説明できない。

 しかし、著者もこのことについて、三刀屋氏と吉川氏が何らかの関係をもっていたことは間違いないと考える。想像だが、三刀屋氏が三刀屋を追われ(改易され)たあと、毛利氏とは別に吉川氏が間に入って、三刀屋氏の処罰の軽減を行ったのではないか。

 吉川氏は、毛利両川の中でも一番出雲に近く、このため出雲との関係はより深いものがある。元就の時代から警戒されていた三刀屋氏が、輝元の時代になってさらに信用を得なくなった理由がいま一つ不明だが、それと対照的な吉川氏の三刀屋氏に対する扱いが想起される。

 どちらにしても三刀屋氏の晩年の動向を示す記録がないため、今のところ想像の域を出ない。


【写真上】梅窓禅院の後の山にある「殿様墓」と呼ばれる宝篋印塔

 諏訪部氏の墓とも言われているが、はっきりしない。特徴的なのは、写真にあるように、墓そのものをさらに石屋根造りで囲っていることである。
 また、この墓のある小山全体に古墳が点在していることもあって、「松本古墳公園」という区域になっている。

2009年4月12日日曜日

三刀屋尾崎城 その2 地王峠・八畝の戦い

三刀屋尾崎城 その2

 地王峠・八畝の戦い

 前稿の話から少し先に移るが、永禄5年(1562)からの毛利の動きを中心に進めたい。
 この年の夏、元就は1万5千から2万ともいわれる大軍を率いて、石見から出雲に入ってきた。出雲の最初の着陣地は赤穴の瀬戸山城である。

 このころ、元就は石見銀山にいた本城常光を誅殺したため、出雲国人で桜井・牛尾などが再び尼子方に帰参している。しかし、三刀屋・三沢・赤穴・米原などは毛利にとどまっている。
【写真左】三刀屋尾崎城物見櫓跡











 同年12月、松江の洗合(荒隅)まで陣を進め、まずは東方の富田城でなく、北の白鹿城を目標とした。

 元就が約半年近くもかけて、ゆっくりと出雲の地で陣構えができたのも、安芸から出雲(宍道湖方面)までの補給路が完全に確保されていたからである。特に現在の国道54号線ルートを盤石なものとしていたことが大きい。

 中でも三刀屋城の位置は、まっすぐ北に向う(宍道町方面)ルートと、東方の月山冨田城へ向かうルートの始点になることから、戦略上重要で、逆にいえば尼子方にとって、この三刀屋城を落とせば、補給路を断つことができる。

 このころ三刀屋久扶は、毛利の宍戸隆家、山内隆通らと地元三刀屋城付近にあって、糧道の確保に当たっている。そうしたところ、12月下旬、予想通り尼子方の軍勢が大原方面から押し寄せてくる。
 久扶は特に、三刀屋城に近い「八畝峠」を越えさせてはならないと判断し、先手を打って尼子方・熊野入道西阿率いる1,500騎を討ち取った。この戦功に対し元就から久扶に対し感状が送られている。

【写真左】峯寺弥山から「八畝峠」方面を見る
 八畝峠は、斐伊川の支流・赤川沿いにある加茂の立原源太兵衛の居城であった近松城から南へ約2㎞入ったところで、東には大東下佐世の佐世氏の居城・佐世城がある。標高はさほど高くないものの、入り組んだ谷間を持つ。

 ここを抜けると斐伊川本流に出てくるが、三刀屋城はさらに斐伊川を超え、地王峠を越え三刀屋川を渡って初めてたどりつく位置にある。


 さらに明くる永禄6年正月、再び尼子方が三刀屋を目指して攻めてくる。これが「地王峠の戦い」である。このくだりは、「新雲陽軍実記」を借りて示したい。

 “尼子方では西阿の弔い合戦をせんものと、立原源太兵衛を案内に、宇山飛騨守久信・牛尾遠江守幸清を両大将に2千余騎が富田城を出発した。先鋒の立原は日井の江川を一気にかけわたって、地王が峰に駆け上り、三刀屋が家の子・坂倉彦六と渡り合い、槍を合わせること8度に及んだ。

 このとき、彦六は槍傷を2か所に受け、すでに源太兵衛に討たれそうに見えたところ、諏訪部左近・南原豊前守・坂谷平蔵等が駆けつけて助成したので、ようやく助かり、源太兵衛も高股を突かれ、やむを得ず三谷山へ退いて行った。

【写真上】地王峠付近を見る
 現在松江尾道高速道の三刀屋木次ICになっているところで、地王峠の戦いに関する遺構は消滅している。三刀屋尾崎城からは、三刀屋川をはさんで東方に約1.5キロ程度の位置になる。

 三谷山は三刀屋の城を眼の下に見下ろす要地だったので、ここに退いたのである。三刀屋勢ももともと小勢であったので、相引きに別れて行ったが、双方死人を含めると132人あり、手負いも300人余りに及んだ。

【写真左】三刀屋尾崎城からほぼ真正面に見える「三谷山城」(H180m)




 あれこれしているところへ、尼子の本隊・宇山・牛尾も駆けつけてきたので、
「明日は勝負を一気に決しよう」
と、三刀屋の在家に放火して城を見上げると、後方は深山峨々として茂林の枯木が枝を交え、前方には大河が取り巻いて、容易に渡れそうにない。

 いかがはせんと思案していると、源太兵衛が、
「要塞に立て篭もっている敵に対して、われわれが長蛇の如く川を渡れば、定めて敵は矢衾(やぶすま)を作って、我等を川中に射とめんとはかるだろう。その時を見計らい、牛尾殿が搦手から横槍を入れられたならば、川岸の敵は退路を断たれまいと、隊伍を乱して引くであろう。そこを目がけてわれわれは飛龍の如く川を渡り、勝敗を一挙に決しよう」
といった。一同もこれに同意したので、追手を承った立原・宇山は城の東西から川に沿って乗り出した。

 牛尾は700騎を引率し、搦手から幅3町ばかりある三刀屋川の下流をうちわたり、八幡の杜を右手に天神丸を左方にして、川の方へ向かっていった。ちょうどこのとき、物見の者どもが尼子の陣中に帰ってきて、
「毛利軍は富田よりも、三刀屋の救援が急務であると聞いて、今朝荒隈から後詰が出馬したとの由である。その援軍は、小早川・熊谷・天野・赤穴の猛勢で、一手は和名佐・佐世を通り、もう一手は、宍道を通過して進軍している。包囲されぬうちに開陣した方が良い」
という。尼子勢は、
「そうなっては大変」
と、我先ににと大東を通り、富田を目指して引き揚げて行ったが、あとになって調べてみると、これは全くあとかたもない空言で、荒隈からの計略であったという。”



 こうして二度にわたる尼子軍の三刀屋攻めも失敗に終わったことから、補給路としての三刀屋が維持され、その後10月には毛利軍の総攻撃で、松江の白鹿城がおちた。

 元就はその勢いで一気には攻めず、翌永禄7年(1564)は持久戦をとり、明くる永禄8年(1565)になってからいよいよ最後の富田城を攻め入る。4月17日、総勢3万騎といわれた毛利軍は、三軍に分けて攻めかかった。

 このとき、三刀屋久扶は、小早川隆景の下に入り、米原綱寛(斐川高瀬城主)、三沢為清らとともに月山の菅谷口から先陣をつとめている。

 このときの戦も、元就は決して急がず、月山冨田城の兵糧が欠乏し始めた永禄9年の11月、尼子義久からの開城の申し出があり、これを和議という形で受け入れた。このとき実質上の手続きを行ったのは、毛利方の名家老といわれた福原貞俊と、琵琶甲城主・口羽通良である。

 尼子方は、義久はじめ、弟の倫久・秀久とともに杵築大社まで送られ、ここで一族郎党と別れた。なお、尼子方の中には、先述した三刀屋蔵人も山中鹿助らとともにいた。

2009年4月5日日曜日

三刀屋尾崎城 その1(島根県雲南市三刀屋)

三刀屋尾崎(みとやおさきじょう)


◆登城日 2009年4月11日他
所在地  島根県雲南市三刀屋古城
標高 58m
指定 島根県指定史跡
別名 三刀屋城、尾崎城、天神丸城、
遺構概要 郭群、用水路、水手郭、石塁、土塁、虎口、横矢構、堀切、馬場乗り場、石垣、列石等

◆解説
 前稿まで「三刀屋じゃ山城」(以下「じゃ山城」とする)を取り上げてきたが、今回からその「じゃ山城」より三刀屋川沿いに下った位置にある「三刀屋尾崎城」(以下「尾崎城」とする)を取り上げる。

 二つの城とも三刀屋氏の居城である。 「じゃ山城」の稿で現地に設置された説明板には、「じゃ山城」は、「かつて本城跡の支城の一つであったのを、おそらくは戦国末期に移城し、居城として用いた…」と記されている。
【写真左】三刀屋川をはさんだ「浄土寺」から見た三刀屋尾崎城遠望










 この文面から解釈すると、「じゃ山城」は戦国末期まで使われていた、という解釈になる。そうなると今回取り上げる「尾崎城」は、その後使われたということになるが、この説明では、解釈の仕方によっては、「じゃ山城は、もともと別にあった本城の支城の位置づけだったが、戦国末期にこのじゃ山城に移り居城とした」という意味にも取れる。

 こうなると一般的に言われている、「前期は、じゃ山城を、後期は尾崎城を使用した」という説と矛盾することになる。常識的に考えて、山城の位置は時代が下るにつれて、下流部へ移る傾向が多いので、やはり今稿の「尾崎城」は戦国末期に三刀屋氏が居城として使っていたと解釈した方がいいと思う。

 もちろん、具体的な資料にかけるため、あくまでも想像のもとに、通説となった内容であり、断定はできない。そこで、あらためて具体的な記録のみを抽出すると次の通りである。
【写真左】三刀屋城近影













、「三刀屋家文書」によると、南北朝期の観応2年(1352)8月、惣領地頭・諏訪部扶重(信恵)が、山名時氏の催促により、南朝方として旗揚げしたときの軍忠状に「出雲国三刀屋郷楯籠 石丸城…」とある。


、永禄6年(1563)、「地王峠の戦い」で、「幅三町ばかりの三刀屋川の下を打ちわたり、八幡の森を妻手(めて)に見て、天神丸を弓手(ゆんて)になして、北の方へぞ向かいける…」と書かれている。



 上記1の石丸城は、「じゃ山城」の別名で、上記2の天神丸は、「尾崎城」の北東先端部のことと思われる。

 ところで、断片的な羅列になるが、室町期に三刀屋氏が記録上出てくるのは、応仁の乱のときである。山陰では出雲の守護・京極持清が東軍で、他の因幡・伯耆・石見などは山名氏の支配下であったことから西軍に属している。当然三刀屋(諏訪部)氏も京極の東軍にあり、勃発した応仁元年(1467)の7月、出雲の国人・赤穴幸清・牛尾五郎左衛門忠清が参戦し、その後三刀屋助五郎が加わった、とある。
【写真左】三刀屋城北方の「峯寺弥山」の尾根から見た当城遠望









 また、応仁の乱の最中である文明2年(1470)に、出雲では手薄になった出雲の守護代・尼子氏(清定)に対して、三沢郷を中心に支配していた国人・三沢対馬守が蜂起する。

このとき三沢氏に加担したのは、多胡宗右衛門尉、山佐五郎左衛門尉、佐方民部丞、飯沼四郎右衛門尉、下笠豊前守、野波次郎右衛門尉、小境四郎左衛門尉といった国人たちである。

 しかし清定に対抗したものの、逆に討伐され、知行を差し押さえられた。このうち、佐方民部丞は三刀屋氏の支族で、伊萱に本拠を置く佐方氏に関係する者だったといわれている。

 このほかにも、尼子氏より古い国人・松田氏などが反乱をおこすものの、鎮圧され次第に尼子氏の支配力が強まっていく。その後、尼子氏は幕府の命を無視するようになったため、文明16年(1484)、三沢・三刀屋・朝山(浅山)・広田・桜井・塩冶・古志などの国人に対し、幕府が追討の命を下し、経久(清定の子)は下野する。しかし、2年後の文明18年に、ふたたび富田城奪回により経久は復帰する。そうした経過を経て、最終的には三刀屋氏も含め主だった出雲国人領主は尼子氏に属する。
【写真左】三刀屋城の案内図









 三刀屋氏の記録については、断片的なものが多く、また宗家と庶子家の記録が混在していることから、今一つ整理ができていない。前述した文明18年の経久による富田城奪回後、しばらくは三刀屋氏も尼子の支配下に入っている。

 大永2年(1522)5月付で、三刀屋対馬守は「三刀屋郷内所々、尾崎・菅原・熊谷上下」を経久から再度安堵されている。その後享禄3年(1530)5月付で、のちの弾正忠扶となる新四郎宛に、経久から「仙導朝山多賀美作守抱地」及び「飯石郡取抱内大原郡稲葉跡」を新給地として与えられている。なお、忠扶は、弘治3年(1557)に尼子義久から「久」の一字をもらって、「久扶」と名乗っているので、今後は久扶とする。

【写真左】三刀屋城本丸下の登城道










 ここでもう一人の三刀屋姓を名乗る人物がいる。それは三刀屋蔵人で、彼は久扶と違って、終始一貫して尼子方に与する人物である。久扶と蔵人の間柄ははっきりしないが、三刀屋氏の一族であることには間違いない。

 天文9年(1540)尼子晴久が一族の反対を押し切って、安芸郡山の毛利元就攻めを敢行する。このとき、三沢為幸、朝山、宍道の各氏に混じって、三刀屋久扶と蔵人が入っている。結果はよく知られたとおりの惨敗で、三沢為幸は討死し、三刀屋久扶も蔵人も命からがら出雲に退却する。
【写真左】本丸付近から三刀屋川、及び三刀屋の町並みを見る











 晴久のこうした判断がのちに出雲国人諸豪からの離反につながり、さらに決定的だったのは、経久が84歳の生涯を終えたことである。その後、山口の大内義隆が出雲遠征を目指すことが分かり、三刀屋久扶、三沢為清、掛合の多賀美作守らは尼子(晴久)を見限り、大内氏に与する。

 天文12年(1543)2月、大内義隆らは、富田月山城を見下ろす京羅木山に陣を構える。周防から同行していた陶隆房(晴賢)は経塚山に、田子兵庫助は、富田八幡山に陣を構えた。

 三刀屋久扶は、三沢・多賀・宍道氏らとともにこの田子の旗下にあった。しかし、この戦いもこう着状態が続き、4月になると、大内方に与していた吉川・三沢・三刀屋・広田・桜井・本城・小笠原・富永・出羽・杉原・久代・江田・池上は次々と離反し、尼子晴久の拠る富田城へ入ってしまった。こうなると大内方は遠来の将兵だけになり、5月7日に総退却を決めるものの、多くの死者を出す。

 なお、大内方にとどまった出雲国人では、宍道遠江正隆、多賀美作守通定の二人がおり、のちに毛利氏が台頭したころに同氏に属している。
【写真左】本丸付近













 その後尼子晴久が亡くなると、出雲の国人たちは再び動揺する。これまで見てきたように、三刀屋氏の動きは、三沢氏とほぼ同様の動きを見せている。両氏の祖が、どちらも信州の出であることからの連帯性がそうさせているのかもしれない。

 両氏は出雲国人の中でもいち早く毛利氏へ再びなびく。このような態度を、赤穴城で城主・久清と袂と分かち、あくまで尼子に与した二人の勇将・森田左衛門、烏田権兵衛は「三刀屋、三沢などは今まで尼子方にありて、明日は大内に降り、また尼子へ戻りて、今また毛利に降り、度々心を変じ、掌を返す反臣なり」と唾棄している。
【写真左】物見櫓から本丸を見る


【写真左】本丸から二の丸方面を見る