2009年3月9日月曜日

伊志見郷(島根県松江市宍道町伊志見)

伊志見郷(いじみごう)

●所在地 島根県松江市宍道町伊志見


◆解説
 山城と直接関係はないが、前稿まで取り上げた佐々布氏の本城・佐々布要害山城から西へ向い、小佐々布を経て、さらに峠を越えると、伊志見郷という地区がある。
今稿はこの伊志見郷について取り上げたい。

 この伊志見地区を、歴史的な位置で見ると、中世・戦国期には、東に宍道氏や佐々布氏、西には斐川の高瀬城主・米原氏、そして南には加茂高麻城主・大西氏(鞍縣氏)、及び三刀屋氏など四周を国人領主が取り囲むような場所となっている。

 これだけでも、当時この郷に住む者たちにとって、いかに気が休む時がなかったかが想像できる。そうした環境下で、この地に住む人たちがどのように時の権力者と関わりをもったか、戦国期ではないものの、室町期までの記録として、興味のある史料が残っているので、取り上げたい。(参考資料:「宍道町史」など)

承久の乱後
 
 後鳥羽上皇が隠岐に流された鎌倉期の承久の乱後、出雲杵築大社の社領として、周辺のおもだった郷・荘の中から12郷が寄進された。その中の一つに、この「伊志見郷」がある。その後、同郷は、社領として支配すべき当事者である、領家・藤原氏と本家・天皇家が争いを起こしてしまい、領主が定まらなくなった。

このあと、非常にめまぐるしい領地の支配争いが長期間にわたって行われる。以下主だった流れのみを記す。

【写真左】伊志見の谷
 現在は土地改良されて、整然とした区画となっているが、当時はどこにもあった大中小の変形田による棚田だった。


 写真奥に見えるのは、現在の高速山陰道で、右に行くと出雲市、この左奥へはいずれ広島県三次市や尾道市につながる予定の高速三刀屋線がある。

 紆余曲折したあと、全て本家に移ったが、建武の新政(後醍醐天皇)後、、大社国造と社領を折半したその半分(本家分・残りの半分は社家分として大社国造が知行)を、柳原宮家が継承する(『大社町史』)ことになった。

 ところが、その後、柳原宮家と山科家で、本家職をめぐって対立が起き、伊志見郷を含む大社領の半分(全体の四分の一)は、山科家が知行することになる。

 応永30年(1423)、柳原宮家は室町幕府に直訴して、その全面返還を求めるも、叶えられなかった。その後、室町・戦国期を通じて、この伊志見郷も含め、遙堪(ようかん)郷、千家郷、富郷は山科家の支配となる。

【写真左】京都・建仁寺の本坊
建仁2年(1202)将軍源頼家が土地を寄進し、栄西禅師が開山した。








祥雲院領・建仁寺

 ただ、理由は不明だが、この伊志見郷だけは、途中から山科家から、同じ京都の建仁寺(京都五山の一つで、この間仏像の盗難騒ぎがあったが…)の「塔頭祥雲院」に寄進され、祥雲院領となった。

 しかし、応仁・文明の乱により建仁寺では支配できなくなり、文明4年(1472)、幕府の命により、再び山科家に戻される。

 このころの出雲の守護代であった尼子清定に対し、山科家による所領支配について、幕府からもその旨協力するよう命が下っている。ただ、清定も直接自分とかかわりのない社領の支配協力には積極的でなかった。

 このため、山科家による自力支配ができず、石見の国人・佐波秀連(この当時は、出雲で活躍していた)に請負させ、改めて山科家より、伊志見郷の百姓らに対し、従来通り年貢・諸公事などを代官・佐波氏に納入するよう命が下される。

【写真左】天井絵図「双流図」
 建仁寺の法堂(はっとう)にある小泉淳作の筆(2002年作)による。







応仁の乱後

 応仁・文明の乱が終わると、再び伊志見郷は元の建仁寺に寄進された。しかし、こうした権門勢家による荘園領主は、明応年間あたりから衰退し、杵築大社支配関係の文書は、明応3年(1494)をもって姿を消している。

 そうした例としては、同じ明応3年4月27日付で、山科言国(ことくに)が、奥出雲国人領主・三沢氏に、「出雲国遙堪郷」を売却、という文書が見える。

 以上のように、この伊志見郷だけではないかもしれないが、おもに西日本では、一つの郷・荘をとらえて、寺領・社領といった郷地域などは、当国外の支配者によってかき回されている事例が多い。もっともその根源的な部分では、前時代の律令制の下地が影響もしているが。

ところで、この伊志見郷という地区は、重粘土質であり、昔から良質のコメがとれることが知られている。

 当時からこの谷で作られたコメを、近隣はもとより、遠く京の都まで運ばれていたことを考えると、食べ物の情報も相当広範囲で伝わっていたと思われる。つまり、今風にいえば、地方の名産品というブランドが既にこの時代からできていたようだ。



【写真上】伊志見谷のほぼ中央部
 この写真の左右にある道は、江戸期から佐々布方面へ往来する街道でもあったようだ。
※私事で恐縮だが、実はこの元伊志見郷(現:伊志見地区圃場整備組合)の中に、当方所有の田、数筆がある。
【写真左】中央付近から北を見る。
 中世の頃の伊志見郷は現在のように下流部まで圃場がなく、宍道湖がかなり手前まで広がっていた。
 その分、逆に山間部の小さな谷奥にまで中小の棚田が枝を張るように伸びていた。


【写真左】伊志見地区溜池掛り図・その1
 (下段が北を示す)

 この図面は伊志見地区圃場関係の図面で、水利関係を示したものだが、圃場整備された関係で、整備前の小規模な棚田の様子は窺い知ることはできない。
【写真左】伊志見地区溜池掛り図・その2
 (下段が北を示す)

 伊志見の圃場としては、北端がほぼ国道9号線あたり(図一番下の道路)で、中世当時の筆数よりは少なくなったが、耕作総面積は2倍近く増えたものと思われる。










伊志見郷と常陸・上総のイジミ

 ところで、さらに山城の関係と逸れる話になるが、たまたま本稿の写真・記事を見ていただいた方で、何有荘のblogというサイトを開設されている方から、常陸(千葉県)の夷隅(イスミ)は、古代出雲国伊志見(伊甚)からやってきた人々によって開拓・建国されているというメールを戴いた。

 その後、管理人が加入している地元伊志見圃場整備組合の会員の方から、同じような観点から調査しているという話を聞き、改めて当地・伊志見郷の興味深い歴史の重みをそこに感じた。

 さて、このことについては、近畿民俗学会会員の澤田文夫氏が「出雲、上総、常陸のイジミ地名考」(2005年)という論文で発表されている。これによると、出雲国伊志見(伊甚)から上総・常陸へ移住した人々の性格や、その理由などは不明だが、時期は7~10世紀頃であろう、としている。
【写真左】伊志見郷
 カリヤ免付近












 この論文は「地名考」を中心に神社信仰の共通性も含めて推論しているが、地名でいえば、イジミ(イスミ)以外に、や、例えば「カリヤ(免)」という共通地名などがあり、伊甚神社記によれば、現在の神社より南100m地点に「伊志見国造」の政所(「万所」)があり、当時の当地における豪族(※)で、のちにこの勢力が上総(千葉県)へ移ったという伝承が生まれているという。

 ※「政所」から東へ伊志見川を挟んで約20mの位置に「別所」があり、そこには高さ約40センチ程度の小規模だが、かなり古い宝篋印塔形式で、塔身から上部までのものが残っている。ただ、当時の豪族のものかは不明。


 前記した「カリヤ(免)」という筆地は2か所点在しているが、奇しくも2か所とも管理人の圃場に接している場所に当たる。カリヤというのは、おそらく稲の刈取りからきた語源だろうと思うが、カリヤ免とは、刈取りを免ずる、すなわち上納・貢を免ずる、場合によっては、神田の補完的な役割を担っていたのかもしれない。

 このほか、伊志見郷の圃場にはそれぞれ固有の名称があったが、ほとんど土地改良によって名称は番地の登録となり、当時の筆名を知る人はほんのわずかである。

 山城は戦の歴史をかたる有形文化財であるが、田圃の地名(筆名)は、それ以上に生活という人の営みを如実に物語ってきた生産遺構でもある。

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