2009年3月7日土曜日

佐々布氏・佐々布要害山城 その2

佐々布氏・佐々布要害山城 その2

◆前稿で佐々布氏の記録などを主として「きまち書留帳」に基づいて記したが、今稿では主として「宍道町史」によって、さらに同氏と当城について取り上げる。

●全盛期の佐々布氏の所領範囲が地元宍道区域のみならず、宍道湖を隔てた平田方面まであったことはすでに記したが、このことは宍道湖を使った活動、すなわち水運によるものであり、宍道町史では、「佐々布氏が中海・宍道湖を内海として活躍する水軍領主としての特徴をもっていた」と想定している。

●佐々布要害山城の特徴である、東郭群と西郭群の2区域に別れた形式を「一城別郭」という。この稿では、東郭群を取り上げるが、この主郭部の標高は、西郭群より低く、標高102mである。

●この城郭の調査に当たった山根正明氏によれば、東西の郭を巧みに連結し、東郭群で防戦しながら、西郭群へ撤収するという設定であるという。また全体に普請そのものが丁寧で、完成度の高い山城であるという。

●そして結論としては、「西郭群は、佐々布氏によってその所領支配の拠点として築かれていた同氏の本城(詰城)だった」と推定する。そして佐々布氏後に改修された痕跡(竪掘り、土塁など)から、その施工主は毛利氏もしくは、石見・安芸の国人によるものだという

【写真左】西郭群から東郭群へ向かう尾根道

【写真左】東郭群の郭
東郭群も厳密にいえば、東西に分かれた形をとっており、西側の頂上部(標高101m)郭は長径40m弱で、周囲はほぼ全面切崖状態で、東側の頂上部(標高95m)の郭は南に土塁を駆使して、東西に約80m伸びている。

そしてその北東周囲下に3,4段の郭を配し、北面に「噴水を逆にしたような竪掘り」ができている(現地では確認できなかったが…)。この特徴的な竪掘りは、石見瑞穂町の「二ッ山城」(出羽氏)と類似した技法で、このことがのちに毛利氏もしくは、石見の国人が、当城にあらたに手を加えた痕跡とする根拠である。

【写真左】東郭群の北東2段目郭に見えた「井戸跡」
西郭群にあった井戸跡は相当埋まっていたが、この井戸跡は極めて良好に残っていた。

形状は四角形で、一辺が1.5m前後か。この位置あたりになると、おそらく井戸深さは西郭群のそれよりも浅い状態でも水が出たものと思われる。

【写真左】土塁の一部
現地でははっきりと確認できる形状でも、こうして写真を撮ってみると、ほとんど判別不能の絵柄になってしまう。

特に周辺にこれだけ雑木や、枯葉が多いと、撮った本人でさえも「何の写真?」という状況に陥る。

【写真左】東郭群の西頂上部から北に降りた地点から見た北の景色
このすぐ下には、高圧線の鉄塔が建っており、そのわきに北側から登れそうな小道の跡が少し残っていた。

【写真左】佐々布要害山城の北西部にある宍道町(松江市)「ふるさと森林公園」案内図
 この写真でいえば、右側のほぼ中央部からさらに右(東)へ向かった地点が当城の位置となる。

◆この佐々布要害山城について、個人的な感想を述べるならば、現在の出雲部にある山城として、その規模は隣にある「金山要害山城」と遜色なく、しかも特徴的な「一城別郭」という形式や、普請の完成度から見ても上位に入ると思われる。

ただ、残念なことに、西郭群のさらに西方部が既に「ふるさと森林公園」によって大幅に改変されていること、また、現地の雑木や倒木等々全く未整備の状況があるため、「気楽に登城」できないことである。

尼子氏や毛利氏といった巨大な支配者でなく、むしろ一族が絶えないことを最後のよりどころとしたような同氏の戦国後半期の姿が、そのままこの城に投影されているような、そんな印象が残っているが、山城としては、非常に興味深いものを感じる。機会があれば、再度登城してみたい城である。

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