2009年3月30日月曜日

土居城(大野氏居館)跡(島根県松江市大野町)

土居城・大野氏居館跡

●登城日  2009年3月28日(土曜日)
●所在地  島根県松江市上大野町 西光寺裏
●標高/比高  71m/30m
●遺構  土塁・郭・堀等

解説(参考:大野郷土誌等)
 前稿の本宮山城より西の谷に降りて行ったところに西光寺という臨済宗の寺院がある。この寺院を含めた丘陵地が大野氏の居館跡とされ、県遺跡データベースでは「土居城」と登録されている。

 元々西光寺は、この近くの土居正伝寺という地名のところにあり、西光寺の創建時期は不明だが、大野氏滅亡後、慶長3年(1598)4月8日、現在地に移転し、落城供養を営み、大野氏15代・高成を開基とした。

●大野郷土誌によると、昭和44年8月、当時の大野郷土誌編集委員によって、同寺の西北にある竹藪の中に多数の五輪塔の破片らしきものがあることが分かり、発掘作業が行われた。その結果、五輪塔22基、宝篋印塔3基が発見された(写真参照)。
 なお、竹藪の中に破片があることを最初に発見したのは、昭和44年当時の西光寺の御住職・昌子(しょうじ)淡海氏である。
【写真左】西光寺(土居城)門前
 土居城は、この寺院も含め、本堂奥の小山全体が大野氏館跡である。


 同誌によると、大野氏の館(土居城)の状況は次のようなものであったとしている。

“…大野氏の居館の跡といわれているが、当時のいわゆる鎌倉武士の館の類型によく似ている。鎌倉武士の館とは、大体次のごときものである。

山寄りの地帯なら、谷あいのまとまった平地を形作った小河川が平地を出ようとするところ、あるいはなだらかな台地を背に川べりに広がっているところ、その近くの高みに、各国の国府へと連なって行く道路に面して、武士の大きな館が建てられている。

 周囲は空堀か、水を湛えた堀に囲まれ、大体正方形に近い敷地である。その一辺はほぼ150mから200mぐらい、内側には、高さ1.2mの土手が築かれ、垣根がめぐらされている。中には二重の堀によって囲まれていたり、二つの正方形を連結して中間に堀があったりする、手の込んだ形式のものである。…以下略”
【写真左】本堂裏の南端部にある五輪塔と宝篋印塔
 昭和44年当時発掘された五輪塔と宝篋印塔だが、現在では当時の数ほど揃っておらず、合せて12,3基程度だった。
【写真左】館跡地の中央部に造られた「軍道(いくさみち)といわれる間道
 館・土居城の敷地は一辺が150~200m前後で、楕円形に近い形をしている。北端部には東西に長いため池があるが、当時からあったとれば、北面の切崖状況から見て簡単にはこの位置から攻め込むことは困難な造りといえる。
●写真は一見、堀切のように見えるが、軍道という名の道で、館跡地のほぼ中央部を南北に通っている。もっともその先が前記した池があるので、戦があった場合は、堀切としての効果も十分にあったものと思われる。この堀切を中心にして、東西に郭跡があり、大きさは東側が多少大きく感じた。
【写真左】館跡地に立つ数十の地蔵
 軍道(堀切)をはさんで、東側郭の外周部に写真のような地蔵が祀られている。ミニチュア版の札所のような感じて、3,4分で一周できる。もちろんこれは近代になってからのものだろう。

【写真左】西側郭跡にあった石碑
 東郭跡にはこれより大きな祠が設置してあったので、主郭は「八幡床」といわれる場所と思われる。
【写真左】井戸跡
 これも西郭に残っていて、その直径はかなり大きく3~4mはあったと思われる。同誌によれば、この東郭(八幡床)を中心として周辺に館や将兵の長屋もあったということから、西郭は家臣を中心としたものが住んでいたかもしれない。
【写真左】館跡の北端部にある池
前記した東西に長いため池が、館跡北端部切崖下に見える。

◆この土居城に足を踏み入れた途端に思い出したのが、鳥取県琴浦町にある「槻下豪族館跡」と、おなじく南部町にある「小松城」だった。規模や形は違うものの、その施工にきわめて類似したものを感じる。

 大野氏がこの大野郷に入部したのが鎌倉初期であり、上記2か所の築城期もほぼ同時期と考えられる。当時の築城・居館の造りは、多少地域的に離れていても、非常に共通点が多い。

 まさかとは思うが、現在のような大手の土木建築会社のようなものが当時から存在し、たとえば出雲・伯耆地方の居館・城郭を一手に引き受けていたような職人集団が居たとするならば、非常に興味深い話になる。(※もっとも、これがまかり通っていたら、戦略上の情報が筒抜けで、とんでもないことになるが…)

0 件のコメント:

コメントを投稿