2009年3月5日木曜日

本城常光(ほんじょうつねみつ)のこと

本城常光(本庄経光)のこと

◆解説
 本城常光については、尼子・毛利の争いの中でいわゆるキーマン的な存在として語られてきている。

 名称からいえば、「本庄経光」とも書かれ、一定していない。
 また、彼の出自についても様々な説があるが、高櫓城跡(島根県出雲市佐田町反辺慶正)の城主でもあったことから、この稿では、地元の「佐田町史」を主として参考にしながら取り上げたい。
 なお、この稿では「本城常光」という名称を用いる。

【写真左】本城常光が拠った石見銀山・山吹城








●本城常光の系譜は、元々石見・安芸に君臨した「高橋氏」の流れで、その高橋氏の先祖は人皇第40代天武天皇にさかのぼる。大和松山に橘の経氏がいて、天慶の乱で藤原純友を討って功があり、河内、備中の二国を賜った。その庶流の一つが、大和添上郡高橋荘にいて、膳臣(かしわでのおみ)をもらい、高橋朝臣の姓氏を受ける。
【写真左】高櫓城遠望
 所在地 出雲市佐田町目田森林公園










●その後備中備中松山城(岡山県高梁市内山下)を築き知行。正平年中、高師秀とともに足利尊氏に攻められ、石見・邑智郡に敗走し、正平5年(1350)に藤掛城を築く。その時の城主となったのが、邑智高橋氏の祖・高橋大九郎師光である。そして田所庄の地頭となる。


●師光は、その後正平19年に出羽(いずは)の二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)を陥れ、出羽郷を独占、その総知行は15万石となっている(ただ、石高の当時の単位は地方によって、違いがあるので鵜呑みにはできない。しかし、どちらにしても、大変な所領・財力である)。


●師光の子・貞光は下田所に本城を築き、三代目・貞朝の二男・清光が姓を「本城(ほんじょう)」と改称する。その清光の孫が、本城常光である。なお、前記した出羽・田所は合併前の町名でいえば「瑞穂町」で、現在の「邑南町」である。


●常光の父、すなわち清光の子は元光といい、元光は、二男・常光をはじめ、長兄・昌光、そして三男と思われる男子(山口の方で僧になる)、それに女子二人のうち、一人は福屋慶兼へ、もう一人は武田蔵人へ嫁かせる。


●常光の子には、男子が4人、女子1人がいた。
 長男・隆光は、父常光が誅殺されたとき、都賀(石見)光宅城にて毛利の追手により同じく誅殺。二男・隆任は父と同じ場所(掛屋山城跡(島根県松江市宍道町佐々布)または斐川学頭軍原(口羽氏・その3 二つの軍原(いくさばら)参照))で殺される。

 三男・義重だけは記録によると、尼子方に属していたことから、抹殺されず最後は浮田家へ仕え侍大将となったとある。

 四男・春光は父や長男。隆光らとともに討死している。なお、一人の女子は、白鹿城主・松田兵部少輔の妻となっている。

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