2009年3月4日水曜日

宍道氏・宍道要害山城(松江市宍道町)

宍道要害山城跡(しんじようがいさんじょうあと)
●登城日 2008年1月21日
●所在地 島根県松江市宍道町宍道 ●時代 中世  ●遺跡種別 城館跡  ●指定 未指定
●標高 42 m ●備考 一部破損●築城期 中世
●築城主 宍道氏

◆場所は、JR宍道駅の南で、西側の踏切名が「要害山踏切」という名になっている。この写真の左側から登ったが、正式には右側から道(下の写真)があり、途中で合流している。小規模な山が北に細く突き出した形状で、先端部の各所に墓地が点在している。

解説(現地の案内板より)
 宍道要害山
 宍道要害山は、戦国時代(15~16世紀)に築かれたと推定される山城の跡です。
 当時、この地は金山要害山(坂口要害山ともいう)を本城とする宍道氏の支配下に置かれていました。街道と宍道湖の海運の要衝をおさえるために、この宍道要害山を築いたのでしょう。ここに代官をおいて警護にあたらせたといいます。
 左図は、縄張り図といいますが、城を防備するための平坦地(曲輪)を示しています。



【写真左】宍道駅の南側から見た宍道要害山遠景





【写真左】要害山入口付近
 当城は小規模なため、本丸(公園)まで2,3分でたどり着く。全体が山城というより公園となっているため、地元の人には散歩コースであったり、憩いの場にもなっている。
 写真にあるように、登城口には「要害山」という名称の石柱が立ち、その右に簡単な説明板が設置されている。
 説明板の中にシンプルな縄張り図が書かれているので、その拡大図を添付したのが下の写真である。


【写真左】縄張り図
下の方向が北になる。標高はたかくないものの、西側の崖は急峻で要害性はある。規模の小さい割には郭など遺構の種類が多い。ただ、東側や南側の方は民家や雑木林に覆われているので、この図にある部分すべては見ることはできない。


【写真左】当城の北端部郭から北西の方向を見る
 宍道氏の本城・金山要害山城の出城といわれており、戦国期には、この先端部の真下までが宍道湖縁で、実態は山城というより「海城」としのて機能をもっていたと考えられている。
 なお、写真の左に見える丘陵地の先端部には、元亀年間ごろ毛利氏がほぼ出雲部を手中に収めようとしたころ使われていたといわれている「掛屋山城」が見えている。
 また、左奥に見える島根半島の北山連峰のふもとには、尼子氏から離れ、再び毛利氏と尼子を攻略のためやってきた宍道氏らが陣を構えた林木の「鳶ヶ巣城」が見える。


【写真左】宍道要害山城の西方に見える佐々布川沿いの城郭群跡
 前稿で取り上げた「宍道町史」によると、宍道町の西に流れる佐々布(さそ)川沿いには、おそらく毛利が尼子をほぼ壊滅させるべくやってきた元亀年間頃に、この付近に多くの城館を新築もしくは改築した遺構が残っている。
 当城の宍道要害山城と、写真に見える掛屋山城、その南に海部(おんべ)城、その南西には舞屋城、さらに南方に土居郭群及び城山城、岡田谷をはさんで上野城とあり、さらにその南には鎌倉期からあった佐々布氏の佐々布城がある。
 前稿の金山要害山城はこれら城郭群の最南端で、戦国後期にはあまり使われていなかったようである。
同史によると、これら城郭には普請のあとがみられ、雲芸攻防戦または、尼子復興戦の時期に築城もしくは改修されたという。しかもその目的は、物資や将兵の駐屯空間を広くとった(形状)から、「繋ぎの城」としての役目があった、ということらしい。
 場所的には現在の国道54号線が広島方面に向かってスタートする地点で、この場所から船で宍道湖を東進できる上に、北西には当時鳶ヶ巣城へ直接船で向かうこともできたようで、重要な位置である。このことから佐々布川沿いの陣構えに、毛利方は相当な労力と時間をかけたようである。


写真左】登城途中の道





【写真左】本丸下の郭跡
 ほとんど公園になっている





【写真左】本丸跡に建っている忠魂碑

【写真左】本丸跡の西側崖に残っている古墳
 宍道要害山古墳
 山頂にある忠魂碑の横に、岩に掘りこまれた穴が開いています。大正時代、忠魂碑を建設する際に発見され、中から鉄刀が発見されたといいます。狼煙台(のろしだい)との説もありますが、実は古墳時代後半(6世紀後半)に造られた古墳の石室だと考えられます。
平成2年3月31日
 宍道町教育委員会

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