2009年3月3日火曜日

宍道氏・金山要害山城 その2

◆数年前に宍道町は松江市と合併したが、その合併前に刊行された「宍道町史」という郷土誌がある。この中で、特に宍道町における中世城郭関係に関する膨大な調査記録が記されており、地元の山城ファンの一人としては、非常に時宜にかなった興味をそそる史料を見出すことができる。
◆特に、町内に存在している山城については、主だったものについて懇切丁寧な「縄張図」や、その山城の変遷(特に途中で改修された痕跡などについても)などについても、詳細な調査のもとにまとめられている。
◆特に個人的な興味を引くのは、戦国期の動きはもちろんだが、そもそも山陰・出雲に根を下ろした「武者の創成期」の部分を、具体的な古文書などを列記しながら体系的に整理していることである。
 こうしたことから、本書は宍道町の山城だけでなく他の近隣の山城についても参考になる点が多い。
執筆に携わった方々の労苦に感謝したい。
【写真左】登城途中にある神社
 おそらく宍道氏を祀った宮と思われる、




【写真左】本丸から北の宍道湖方面を見る
 この方向に宍道氏の出城といわれている「宍道要害山城」がある(次稿参照)
【写真左】本丸遠望
 下草などをきれいに刈り取った時に探訪したので、非常に郭の形などが分かりやすい。また主だったところに相当数の桜の木が植えてあるので、地元の人が春には桜見物に来るようだ。

【写真左】詰の丸の下にある「枡形虎口跡」
この説明板によると、虎口はめずらしいようで、東側から攻めてきたとき、この位置で袋小路状態になり、このとき上から攻撃をするという仕組みである。
 もっとも現在では、上まで簡単に登れる傾斜が緩くなっているので、現地ではそれほどの効果を感じないかもしれないが。

【写真左】金山要害山城下の豊龍寺にある宍道氏の九条大袈裟説明板
追加資料として、左の写真は金山要害山城より北に降りた途中の枝道にある豊龍寺という寺の入口にある「宍道伊予守遺物九条大袈裟」についての説明板である。
 この説明板の抜粋を下記する。
“宍道伊予守遺物九条大袈裟
(町指定文化財)
所有 豊龍寺
指定年月日 昭和56年
(宍道氏について)
 宍道氏の祖・宍道八郎は金山要害山を居城として応仁年間(1467~69)にこの地を治め始めたと伝えます。宍道隆慶(7代目)、政慶(8代目)のときに大内氏、毛利氏の尼子攻めに参加しますが、関ヶ原の合戦ののち、毛利氏に従って萩に移り住みます。
(九条大袈裟について)
 豊龍寺には、金蘭の袈裟が寺宝として伝わっていますが、それにまつわる古くからの伝承が残っています。
 それによると、宍道伊予守(備前か)政慶が毛利氏に従って長州に移る際、宍道の豪商・小豆澤(現当主・小豆澤良久氏)へ一人娘を預け…「太刀」と「金蘭の打掛」を残します。小豆澤当主の娘を世継とし、同女が成人すると…を袈裟に仕立て直し、宍道氏…寄進した…というのです。
 袈裟は唐の織物で金蘭の布きれ…られ、たて一方132cm、もう一方…cm…まばゆいものです。小豆澤家では代が…袈裟の裏地を取り換え、仕立て直すようになったとつたえられています。
 平成元年11月1日 宍道町教育委員会”

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