2009年2月6日金曜日

足利直冬・慈恩寺(島根県江津市都治町)

足利直冬・慈恩寺(あしかがただふゆ・じおんじ)

●史跡種類  寺院
●所在地   島根県江津市都治町
●創建時期  1376年
●開基     足利直冬
●探訪日 2008年(平成20年)1月20日(日曜日)

解説

 前稿まで本明城・松山城をとりあげてきたが、今回は同じ石見(石央)にあって、南北朝期、苦難の人生を歩んだ足利直冬の関係史跡である慈恩寺を取り上げる。
【写真左】慈恩寺・山門前
 山号は南陽山とある。












現地の供養碑の碑文より

当山中興開基・足利尊氏公の子息・直冬公は、天授2年(南朝年号)・永和2年(北朝年号)(1376)、当山に隠棲。応永7年(1400)に没す。享年74歳であったと「慈恩寺縁起」に有り。
直冬公が身につけていたと伝えられている丈一寸八分の観世音菩薩は、当山御本尊として篤く祀られている。


平成19年 春彼岸 当山代28世 大国泉静書”
(下線個所は判読不明で筆者の判断による)

足利直冬


直冬は、足利尊氏の妾の子として生まれたが、実父である尊氏から疎まれ、認知もされず幼少時は喝食(小僧)だったという。成長した直冬は、尊氏の弟・直義の養子となる。その後数々の戦功をあげたものの、尊氏と直義との不和などにより、直義が尊氏に降伏し、1352年2月、直義は急死する。
【写真左】供養碑














 その後九州で孤立した直冬は、中国地方へ逃れたものの盛り返して、1355年南朝方と協力して尊氏を京都から追い出す。しかしそれもつかの間で、再び尊氏らの反撃で撤退する。協力者だった大内、山名氏などは幕府に降り、直冬らは再び孤立する。

 1366年の直冬の書状が最後のものとされ、その後の消息が不明となっている。一説には石見で隠遁生活を送ったという。

 以上が直冬の主な動きだが、最後の隠遁生活を送った石見とは、今回取り上げる慈恩寺と晩年を過ごしたといわれる高畑城付近(江津市都治町)である。

【写真】直冬の像と思われるものが祀られている堂外部と石碑











【写真左】 堂の中の像
直冬像と思われる













【写真】慈恩寺から「高畑城」を見る
史料などでは、直冬が拠ったという記録が残っているが、城砦の遺構としてはほとんどなく、実際は当城ではなく、他の山城に拠ったのではないかと思われる。





 足利直冬は、この高畑城に入り、足利幕府に降伏し、許され、この慈恩寺で生涯を終えたと言われている。
 なお、この付近には直冬らとかかわった平田氏・都治氏らの佐賀里松城や、今井城などがある。このうち佐賀里松城は「城郭放浪記」氏がすでに登城し、詳細な写真を報告されている。
南北朝期から室町期に至る過程は、日々刻々と変わる動乱の時代である。
場合によっては、天下をとれたかもしれない足利直冬という男が、この地で最期を迎えたことに感慨深いものがある。

 いずれにせよ、石見地方には太平記が語る世界がまだまだたくさんありそうなので、機会があればこのほかにも探訪したいと思っている。


◆追記
【写真左】宝篋印塔・その1
 慈恩寺境内左に墓地があるが、その中に写真にある立派な宝篋印塔が建立されている。

 直冬のものかどうかは不明だが、その大きさや優美さを考えると、可能性がある。

【写真左】宝篋印塔・その2


【写真左】田中家累代の墓
 この墓地の中で興味を引く墓石があった。
 墓石側面には次のように筆耕されている。






“南領霊大居士
 天文二十年壬子八月二六日四百三十九年前 都治太郎藤原氏田中城主
 九良左兵門義元公
  有善公父”

 この中の田中城というのは、どうやら慈恩寺から700m程東南方向へ向かったところにある円光寺の南にある標高70m余りの丘城のようだ。また、天文20年といえば、大内義隆が陶晴賢の謀反によって長門大寧寺で自害した年に当たる。



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