2009年2月10日火曜日

浄土寺山城(島根県出雲市下古志町)

浄土寺山城(じょうどじさんじょう)

◆登城日  2008年1月26日
◆所在地  出雲市 下古志町
◆時代    中世 
◆遺跡種別  城館跡 
◆標高  48 m
◆備考  室町時代、古志氏が築城。
◆遺構種別 溝 その他 
◆遺構概要 郭 土塁 堀切 虎口 井戸
(参考:島根県遺跡データベースより)
【写真左】浄土寺山城跡の北側にある寺院
 現在地には、写真にあるように、妙蓮寺という寺が建っている。







●案内板より。

”日蓮宗 久遠山 妙蓮寺


沿革
 当山は、大永7年(1527)本法院日秀上人により、当時、禅院であったのを法華に改宗、日蓮聖人奠定(てんじょう)の大曼荼羅を御本尊として、日蓮宗の教義を広められた。
 その後、第4世・日実上人が、法泉寺、妙蓮寺、光明寺を草創、各寺の開山上人となっている。
 当時、当山の位置は現在地より北方300メートルにあったものを第6世・日久上人、第7世・日悦上人によって、貞享元年(1684)現在の山辺に移転せられた。


 境内には番神堂、本堂の後山には稲荷大明神が祀られ、その守護神祭が毎年9月1日に行われている。
 当山の西側には、県の指定文化財になっている「妙蓮寺山古墳」があり、遠く朝鮮の古墳に酷似していることなど注目を集めている。


 また、当寺の裏山には、浄土寺山といわれる城跡があり、古城の歴史を秘めて寺を見守っている。
 久遠山とは、歴史と文化、そしてお題目のお山である。
平成4年12月 神門クラブ ”



◆解説
 前稿・神西氏のところで古志氏について触れたが、今回はその古志郷を治めていた「古志氏」の初期の居城「浄土寺山城」を取り上げる。

●『郷土史 神門』によれば、後鳥羽上皇が隠岐の行在所で亡くなった延応元年(1239)ごろから、中国の元がしばしば日本を攻め始めた弘安元年(1278)ごろまで、出雲・隠岐守護職だった佐々木泰清の第9子・義信が、神門郡古志郷の地頭に任じられ、居城をこの浄土寺(地)山に構えたのが始まりといわれている。築城期は、建長7年(1255)といわれているが、定かでない。

●それにしても、父親の佐々木泰清の守護職の任期は、約40年という大変な長さである。もちろん各地域に支庁のような機関を設け、実質的には地元の武将(守)に地頭・分掌させていたであろうが、統率力のすぐれた人物であったと思われる。

 さて、古志氏と名乗った義信の初期の所領は、古志郷の28町6反18歩となっている。ちなみにこのころ(康元元年:1256年)、北隣りの出雲国造と惣検注使が、出雲部の主だった良田を有する郷村をひとまとめするように、杵築大社領として注進している。その規模は広大な面積で、前記の古志氏の所領の比ではない。


【写真左】浄蓮寺南にある稲荷神社など
 妙蓮寺奥の高くなった部分から浄土寺山城の遺構が残っている。






 この古志氏の浄土寺山城での在任は、第3代・高雅あたりまでで、元弘・建武年間(1331~35)ごろから、浄土寺山の南にある栗栖山へ移ることになる。おそらくこのころから、後醍醐天皇の倒幕運動が始まっているので、浄土寺山城の要害性を考えると、移さざるを得なかったものと思える。

【写真左】
 郭跡付近はほとんど管理されていないため、笹竹などが繁茂しており、遺構の詳細は確認しにくいが、郭や壇などは認められる。

 





【写真左】
 この妙蓮寺の境内の西端には、県指定史跡として妙蓮寺山古墳がある。
(昭和39年県指定史跡)

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