2009年1月18日日曜日

小波城・三輪神社(米子市淀江町)

小波城・三輪神社

 糟谷弥二郎元覚:凸岩井垣城(1月13日投稿)の際にも触れたが、船上山での戦勝に勢いをつけて、さらに3月3日に、幕府方の陣取る小波城へ名和長年らが攻めている。

 この小波城の場所については、最近まで比定できていなかったらしいが、周辺の古墳調査時に、当城跡らしき遺構が発見されたことから、下記の場所とされた。

 ★所在地 鳥取県米子市淀江町小波字下原田周辺

 
 さっそく、1月17日の名和氏館跡探訪と併せ、現地に向かった。上記の所在地の最後が「周辺」ということもあるが、その前の「字下原田」という地名も、道路マップや、ネットの地図情報ではそこまで表記されていないため、カーナビにセットする際も、「おそらくこの辺だろう」というような「勘」で目的地を決めた。

 山陰道から米子のICで降り、カーナビの言うとおりに向かっていくと、なだらかな丘陵地ではあるが、道幅はどんどん狭くなり、対向車が来たらアウトというような集落に入ってしまった。
 おまけにここ数日来の雪が出雲部よりも多く残っており、道と溝の境が分からないような状況である。

 下手をすると脱輪というトラブルに陥りそうになり、途中から、神経は目的地に着くことより、いかにしてこの狭小な道から脱出するか、という方に向いてきた。

 そうこうするうちに、前方に神社のような門が見えたので、この脇に車を止めた。その神社が写真にある「三輪神社」である。

 境内にある記念碑の下段に縁起や遷宮のことなどを刻印したものが見えたので、参考になることがあるかと期待していたが、中世の関係事項は載っておらず、少し気落ちしたところ、境内北側の少し下がったところに、小さなお堂があり、そのわきに五輪塔のようなものが見えた(写真参照)。
【写真上】三輪神社社殿


【写真中央】五輪塔 大型のもの(幅が4,50センチ程度)が1基、中小のもの併せて6,7基が堂の北側に鎮座している。

 帰宅後、この社について調べてみると、次のようなことがわかった。

三輪神社
鳥取県 郷社
鎮座地 西伯郡大和村大字小波字東岡畑

現在地 鳥取県米子市淀江町小波631

祭神

 大物主命、速須佐之男、少名毘古那命

由緒
 当神社創立は崇神天皇の御宇、大和国大神神社の御分霊を勧 請せるものなりと云ふ、蓋し崇神天皇七年諸国病流行盗賊蜂起の際、 国家鎮護の神として大物主命幸魂奇魂を諸国に遷し祀り、
 大田田根 子命をして大神を祭ら給ひしこと旧史に見ゆ、当社は則ち其の一なりと 云ふ、昔時今の社地を距る七町余東南の三輪山に鎮座ありて、其境 内東西八町南北六町三峰に分れ、東を宮広峰と云日、中を鳥居峰 と云ひ、西を堂の峰と云ふ、
 その他神主屋敷、神宮寺跡及び馬場的場等の遺址を存す、麓の下に宮井筒と称する清泉あり、流れて鹽川とな る、
 三代実録に貞観十五年十二月二十日辛亥授伯耆国正六位上三 輪神従五位下とをと、中古は東阿弥陀より西日野川に至るも五十一村 の総氏神なり死といふ、

 彼の鹽川に於て往昔より毎年六月の祓式の祭儀あり、旧藩主池 田より社領の寄進あり、中間庄大社と称して崇敬厚く、明治維新に 至りても春秋の神祭には政庁より供物を頒たれ、明治五年四月村社 に列す、明治四十年四月二十七日に神饌幣帛料供進神社に指定せら る、大正五年十二月大高村大字泉字駄道ノ上鎮座無格社下和泉神社 (祭神 素盞鳴命)を合併す。大正十四年十月郷社に列せらる。

境内神社
 鹽川神社、祭神  大日?貴命
 八幡神社  祭神 誉田別命(ほむたわけのみこと)

例祭日 10月19日
建造物  本殿、向殿、弊殿、拝殿、神楽殿、神饌所、社務所、随神門
境内坪数 1045坪
氏子数  203戸 


  
元徳の頃小波城主大石橋氏の所領たりしと、 元弘三年佐々木清高小波城に據り官軍の為めに焼夷せられ、此の時 兵燹に罹り当社の社殿及び神宮寺等焼失し、宝物古文書等失ふ之よ り衰運に属し、往時の規模を保ち難く、正保二年三月今の地に奉遷 す、
◆赤字で示した部分すなわち、「元徳の頃小波城主大石橋氏の所領たりしと、元弘三年佐々木清高小波城に據り官軍の為めに焼夷せられ、此の時兵燹に罹り当社の社殿及び神宮寺等焼失し、宝物古文書等失ふ」ということから、元徳すなわち船上山合戦の直前(~1330年)まで、この城主は、「大石橋氏(五郎左衛門)」という武将が拠っていた。
 そこへ元弘3年、佐々木清高らが攻め込み、奪取し、ここを幕府方の陣城とした。その際、周辺を焼き尽くし、当社・三輪神社も焼かれ、宝物古文書なども失った、ということなのだろう。
 そして、当城を奪取し、船上山合戦に向かったものの、負け戦になり、敗走し当城に逃げ込む。そのあと追手の長年軍が逆に、ここへ攻め込み、再び清高は負け戦になり、この地から船でいったん隠岐に逃れるものの、心変わりした地元の武士に反撃を受け、越前へ向かい、さらには最後の死に場所である近江にたどりつく。

◆そうしたことから、前記した三輪神社脇に鎮座する五輪塔は、小波城の最初の城主・大石橋氏及び家臣のものかもしれない。
◆調査(下段資料:残念ながら入手していない)の結果、構造については下記のとおり。

●土塁に囲まれた先端の郭は径約80m
●後背部は舌状丘陵を分断するように、先端から約250m付近で堀が確認されている。堀は最大幅4.5m、深さ1.4m
【資料】
『小波原畑遺跡(淀江町埋文調査報告書第26集)』1992 淀江町教育委員会
『小波城跡(淀江町埋文調査報告書第45集)』1997 淀江町教育委員会

【写真上】小波上付近

 写真左側に三輪神社があり、小波の舌状丘陵の北端部になる。当時はこの低い部分(現在田圃)までが入江となっていたようで、地名からも小波程度の遠浅の浜だったと思われる。

 したがって、小波城も「海城」の形式だったと思われる。
 この城を奪った佐々木清高は、もともと隠岐に在住していることから、不慣れな山城より、こうしたいつでも日本海に出られる位置にあった小波城をほしがったのではないかと考えられる。

 いずれにしても、再度現地の場所を確認したいと思っている。

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