2009年1月16日金曜日

赤碕殿塚と赤碕塔

【写真下】花見潟墓地

 箆津(のつ)城の場所から、国道9号線をさらに東に約2キロほど行き、途中から赤碕町の狭い旧道を海岸にそっていくと、「花見潟墓地」という日本海の北風をまともに受ける大きな墓地がある。

 この墓地の中に、県及び町指定文化財をうけた赤崎殿塚と赤崎塔という古墓が建っている。
 現地の説明板によると、次の通り。

“この墓地は、東西約349m、南北19~79m、面積約20,000㎡の広さで、西日本の自然発生墓地では、最大級といわれ、とりわけ、海岸に面した墓地としてはきわめて稀である。
 発生起源は不明だが、石造物などから中世後半以降の成立と推定されており、2万余基の墓が建てられている。

 特に赤碕塔は、その形状の地域性から国東塔(大分県)と並び、石造美術史上貴重なものである。お盆には灯篭が灯された墓地に、帰省の人々と地元の人々が交わすなつかしい声があちこちで聞こえ、本町の一風物詩となっている。

 所在文化財一覧
  県指定文化財 赤碕塔(昭和32年指定)
  町指定文化財 河原地蔵尊(昭和45年指定)
            赤崎殿塚(平成8年指定)
  琴浦町教育委員会”
【写真下】赤碕殿塚
●現地の説明板より
赤碕殿塚(総高185センチ)
 赤崎殿とは、鎌倉末期の船上山合戦に北条方として従軍し、その後当地に住み、地名の「あかさき」を名字としたと伝えられている武将である。
 この石造記念碑は、文政3年(1820)に当時の赤崎番所役人・佐桐金左衛門が願主となり、地元の友三良が中心となって再建されたものであり、創建は不明で
【写真下】石像記念碑
ある。
 そして、明治33年に赤崎村が町制を施行する際に、赤碕殿塚の「𥔎」に従い、赤𥔎町としたが、現在では当用漢字の「碕」を使用している。
  平成8年6月26日指定
     琴浦町教育委員会”
【写真下2枚】赤碕塔と、未指定の別の塔
◆「赤崎塔」のほうは、詳しい説明板が現地になかったので、赤崎町誌から引用させていただく。

(関係分抜粋)
1 赤碕塔
 花見潟墓地の東部に、2基の大きな古塔がある。「赤碕宿根本」にも述べられているように、昔から、清明道満塔と呼ばれてきたものである。

 前文略 又是より化粧川の右手に掛ければ御丈弐丈斗り成石の大地蔵有茲右手に道明満道の墓ふたばか有又西の方に望めば赤碕殿塚有 右茲同別文有と言ふ、只茲赤碕と申は茲名取りて附し事聞伝へける。(吉岡鶴吉氏所蔵、明治20年ごろ、当時18歳ばかりの吉岡角平翁(号して東々庵月山)筆、「赤碕宿根本」

 この塔の特徴は、全体として眺めると赤碕塔であるが、塔身が宝塔の形式になっており、全国にもこうした類例を見ることができず、かつて京都の史跡と美術の主幹をしておられた川勝政太郎先生によって宝篋印塔と命名された。


 川勝先生の説によると、赤碕塔の塔身が宝塔の形式になっているのは、当時このあたりに、天台宗の寺院があって、その関係者の手により、供養のため建立されたものであろう、ということであった。



 現存している永福寺は、宗教の変遷(2)寺院に詳述されているように、現在の中の宮(天乃神奈斐神社)付近から、化粧川東岸のあたりまで、寺の領域になっていたという大寺院であったことが伝えられている点と、山陰地方の古寺の多くが、天台宗であったということを考え合わせると、永福寺はもと、天台宗であったかもしれない(現在は、高野派真言宗)。


 この塔は、突起の反り具合を調べてみると、赤碕殿塚より少し時代は新しいようだが、9輪の刻みは深く、各狭間、並びに花受等の手法及び、塔全体の大きさから考えると、鎌倉期のものと考えられる。

 かつて毎日新聞鳥取版に写真入りで、赤碕塔のことが載せられていたので、以下重複するところもあるが、参考までに原文のまま転載しておく。


新しい宝塔形―赤碕塔

 東伯郡赤碕町海岸、花見墓地にある“清明満道塔”は、塔身が全国でも珍しい宝塔形式をとり、高さ2.24m、横幅1.20mの立派なもの。花うけの構造などから鎌倉時代の建立と推定されている。


 昭和9年頃、町へ来た石造美術界の権威・川勝政太郎氏も、この塔を見て、宝塔形式に注目、鎌倉期に付近に天台宗の寺院があり、供養塔として建てられたものだろうと語っており、「宝篋印塔」と命名した。

 町民は長い間この塔の文化財指定を希望してきたが、このほど佐々木謙、下村章雄両文化財専門委員が実地調査を行い、近く県教委に調査結果を報告、近く県の保護文化財に指定される見通しである。(毎日新聞)  以上
◆同誌によると、「往古、赤碕某なる武将があり、花見潟に築城し、住民悦服云々」とあり、この花見潟または付近が「海城」もしくは館跡だったかもしれない。前記した箆津城といい、まだ取り上げていないが、富長城(名和町)など、この付近の中世城郭は極端なまでに海岸部に築城されている。
 また、この赤碕某なる武将の出自についても、「故野村藤蔵翁は、元弘年間、隠岐から従軍してきた武将が、そのままここに住みついたものだという。」と書かれていることから、後醍醐天皇・名和長年らが船上山で戦った隠岐の佐々木清高らの配下だったかもしれない。
◆実は、この稿には(写真を)貼り付けていないが、同墓地を散策していたら、「隠岐〇〇家」と刻まれた墓が立っていた。今は本土と隠岐の島へ往来する一般的なルートは、フェリーなどがある境港や島根半島の七類など固定されているが、当時は伯耆側からの往来も相当多かったのではないかと思われる。
 そう考えると、船上山合戦の際、北条方(幕府方)として隠岐からやってきた佐々木清高も、糟谷氏らを中心しとして、意外と早く陣立てができたかもしれない(太平記の記録と符合する確率が高くなる)。

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