2009年1月9日金曜日

名和長年(3)三人五輪・名和一族郎党の墓

名和神社周辺には、名和氏に関する史跡が数か所ある。その中から、三人五輪という首塚と、名和一族郎党の墓を取り上げる。

【写真右】三人五輪の首塚
<現地の説明板より>

“大山町指定文化財 三人五輪
名和長年および義高(長男)、高光(三男)の首塚として伝えられ、この地方では珍しく大型の五輪塔である。長年は京都大宮、義高は泉州堺(現大阪府)、高光は西坂本(現滋賀県)で、それぞれ戦死したものを家臣が持ち帰り、ここに祀ったという。 今に三人五輪と呼び、語り継がれている。 昭和57年5月 指定
大山町教育委員会“






【写真右】名和一族郎党の墓

この墓があるお寺は、「名和公菩提所・長綱寺」という。縁起は下記のとおり。

“名和公菩提所・長綱寺略縁起
当山は、元徳2年2月、名和長高公(後の長年公)の開基にして、旧記に「長高先考の為に一宇を創建す。山を萬歳と号し、寺を長高と称す」云々とあり、始め天台宗に属し、長高庵と称したるも、その後、足利氏天下を収攬するに当たり、長高の二字を忌憚し、長綱庵と改む。 ”



名和一族郎党の墓については、同じく現地の説明板によると次の通り。

★当寺の位置は元萬(ばん)歳(ぜい)山(ざん)中腹に在りしが後、祝融(しゅくゆう)の災に罹り、堂宇皆、烏(う)有(う)に帰したるを以て、現在の地に移転、霊電(殿)長老を請けし、中興第一世となし、同時に宗を曹洞に改む(これより長網寺と称す)。
★本尊は弥陀三尊にして、嘗て名和公の念持仏なりしと、又、辱(かたじけな)くも、後醍醐天皇の尊牌を安置す。旧記に「康永年間、児島(こじま)高徳(たかのり)、名和長年を訪ね弔いし後、元弘帝(後醍醐天皇)の御尊牌を捧げ来りて、長年の上位に安置す」と。


★爾来、帝の御追福を祈り奉り、名和氏累代の冥福を修し来る。当寺に用うる紋章は、帆掛舟にして戦捷(せんしょう)(いくさはじめ)の時、帝より名和氏に賜いしものと同じく、尚、名和公寄進にかかる田畑、山林、若干あり、現に堂後の山頂に名和父子の廟塔及び名和一族郎党の墓碑三百基許りありて、千古大忠臣の英霊を仰がしむ。



古代・中世の史跡がある現地の説明板というと、どうしてもこうした漢文調が多く、しかも今では使われていない漢字や「当て字」などが多く、判読するだけでも一苦労だが、その要約作業そのものも、別の意味で勉強にもなる。
どちらにしても、当時これだけまとまった数(300前後)の墓があることがめずらしい。

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