2008年12月31日水曜日

高瀬城(島根県斐川町)

高瀬城(た かせじょう)
【写真左】高瀬城遠景
 左側の方が本丸跡、右側は二の丸、三の丸跡がある。手前に見える高架道路は、山陰高速道で右方向(西方面)に斐川ICがある。左方向は松江方面。
 なお、当城への登り道の一つがこの写真の谷奥にあり、高速道路の下を通り過ぎると、車1台分の駐車スペースがある。

◆島根県には、「島根県遺跡データベース」というサイトがあります。これによると、島根県内にある山城(城跡)は1,200か所余りとのこと。

 当然この中には、砦、支城、出城などといった本城以外のものも含まれます。また、中には館跡らしきものも含まれていますので、当時の在地領主・国人領主などが本城として居城した数は限られると思います。

 戦国期に限定してみれば、出雲部ではやはり尼子氏の関係した山城が多く、石見部の場合は、西に大内氏、東に尼子氏、南に毛利氏などがいたため、一様でないようです。

【写真左】小高瀬という郭付近から大高瀬(本丸)方面を見る

◆さて、この高瀬城ですが、所在地は斐川町にあり、築城期は、南北朝時代に建部伊賀という武将が造ったと言われています。また別の説によると、平家が造ったともいわれており、定かではありません。

 城主として、記録からはっきりとわかるのは、戦国期に活躍した米原綱広(よねはらつなひろ)と嫡男・綱寛(つなひろ)です。父子で同じ呼称ですので、紛らわしいのですが、おもに記録に出ているのは嫡男・綱寛です。

◆尼子氏隆盛のころ、尼子十旗といわれる城が出雲部にありますが、この高瀬城もその一つです。

◆尼子氏はもともと今の彦根市付近にある「尼子」というところから出雲国守護代としてやってきています。その関係もあって、米原氏も同じく彦根市の隣・米原(まいばら)市から、尼子氏の被官としてやってきています。
 尼子経久から孫の晴久までが尼子氏の最盛期で、永禄5年(1562)には、米原氏も他の国人領主と同じく、毛利氏に与していきます。そして、毛利氏の一軍として九州豊後・大友氏との戦いまで従軍していきますが、永禄12年(1569)尼子勝久を立てた山中鹿之助ら尼子再興軍が、隠岐から出雲に入国すると、いち早く米原綱寛は尼子に復帰します。
◆詳細な記録は不明ですが、当時毛利軍の一員として福岡県の立花山城(立花道雪)を攻めていた綱寛が、どうやって自分たちだけ、立花山から戦線離脱できたのか、なんとも不可解です。どうやら、毛利氏としては、尼子再興軍の征伐の先鋒として、綱寛に命じたようですが、毛利方の思惑とは裏腹に、綱寛が地元に戻ったとたんに、尼子に復帰したわけです。このときの毛利方(吉川元春ら)の地団駄踏んだ表情が目に浮かびます。
◆しかし、その尼子再興軍の米原氏も元亀2年(1571)3月、高瀬城は落城。綱寛は松江・法吉町にある真山城へ逃れますが、そこも同年8月落城。鹿之助らはさらに逃亡します。

 綱寛は、真山城落城のあと、京都へ出て仏門に入ったといわれていますが、地元にはそのまま残っていたような記録もあり、なんとも言えません。
 
☆なお、この高瀬城については、今後ももう少し詳しく紹介していきたいと思います。
【写真左】高瀬城本丸跡
 全体が岩の塊のような形状で、削平されたというより、踏みつぶした結果フラットな面ができた、というような形です。
 この場所は「大高瀬」と呼ばれるつめ(甲)の丸で、高瀬城跡の最南端になります。

【写真左】高瀬城本丸跡から東南東方向に見える、加茂の高麻山城

 この城も、尼子十旗の一つで、大西氏、鞍掛氏の居城だった。一時期毛利と戦った際、破れて高瀬城へ敗走している。
(写真が小さいからわかりずらいが、中央のとがった山である)

2008年12月30日火曜日

但馬竹田城



☆写真:但馬(兵庫県)の竹田城

◆登城日 2006年9月16日
◆史跡指定 国指定史跡
◆形態 山城(標高:353.7m)
◆築城期 永享3年(1431年)
◆築城者 太田垣光継
◆城主 太田垣氏,桑山重晴,赤松広秀
◆所在地 兵庫県朝来市和田山町竹田(虎臥山)
◆別名 虎臥城(とらふすじょう、こがじょう),安井ノ城
◆現状・遺構 天守台、石垣、曲輪、井戸跡、竪堀、模擬城門

 まさに日本のマチュピチュ。日本山城の最高傑作で「天空の城」とも云われている。
雲の上に忽然と石垣群が顔を出している風景は絶景である。
そんな光景を見るためには、早朝に隣にある朝来山にのぼって、しかも下に雲海が漂っている時でないと、そうした風景は見られないとのこと。
2008年秋に、地元日本海テレビの番組で、その光景が放送された。

なお、竹田城へは、車でもかなり上まで登ることができ、駐車場(10台ぐらい)も完備されている。

この雲海の上に石垣が顔をのぞかせるような山城として考えられるのは、石見(島根)の津和野城もその可能性がありそうだが、そうした写真をまだ見たことがないので、なんともいえない。

◆この城の歴史
 永享3年(1431年)「山名四天王」の一人・太田垣光継によって築かれた安井ノ城がはじまりと云われる。
 戦国時代になると、山名氏の勢力が衰え、毛利氏に近付くが天正8年(1580年)但馬に侵攻した羽柴軍により落城した。その後二転三転し、秀吉により赤松広秀が入封した。
その後、広秀は朝鮮の役にも派兵し最終的に二万二千石を領した。
 関ヶ原合戦で西軍に属し丹後国田辺城を攻め途中で西軍敗北の報を受け引き上げた。 因幡国鹿野城主亀井滋矩から西軍の因幡国鳥取城攻めの援軍を要請されこれに応えて鳥取城を攻略した。
この時、徳川家康は鳥取城城下町に火を放ち延焼させた罪を問い詰め、これを亀井滋矩が広秀になすりつけた為、広秀は自刃して果てる。
 城は太田垣氏時代の土塁造りから羽柴・赤松時代に石垣造りに改修されたと云われる(参考:城郭放浪記より)

2008年12月29日月曜日

山城とその周辺

◆数年前から周辺の山城を探訪しているうちに、その地域の歴史なども必然的に知るようになり、改めて、地元の歴史の奥深さを知ることがあります。
◆また、山城の場所によっては、その周辺にはほとんど民家がないところもあれば、山深いところに現在でも集落が残っていたりしています。特に後者のような集落をとりまく風景を見渡した時、なんとなく中世の領主がその付近を治めていた情景を想像したりして、山城のもつ独特の雰囲気を味わったりします。

◆特にその集落の中に、戦国時代の武将の末裔が住まいをしているとなると、よりリアリティがわき、数百年も前のことであるにも関わらず、タイムスリップしたかのような感慨を覚えます。

◆当時城下だったところは、今ではほとんどその面影を残しているところは少ないですが、山城周辺の遺構がダイナミックに残っている個所を探訪すれば、山城ファンの方ならだれもが感動するものです。

気ままに探訪しております。

はじめまして

◆歴史については多少の興味はあったものの、当初は神社・寺院を探訪することが楽しみでした。

 そうこうするうちに、神社仏閣の由来・縁起などを調べていくと、寄進や、造営、遷宮などに武将がかかわっていることが多く、その当事者である武士の世界が面白くなり、彼らが築き上げた城(山城・砦など)に興味が移っていきました。

そうした経緯もあって、だんだんと周辺の山城を中心に探訪するようになりました。
写真:石見の本明城 本丸跡
◆現在日本で山城探訪をやっている方は、サイトやブログなどを見てみると、予想以上の方々がいることがわかります。
 中には、「城郭放浪記」さんのように、すでに1,700ヵ所以上という驚異的な数の登城記録を持っている人もいます。(これはもうギネスものです。)

◆実は、今回このブログを立ち上げるきっかけとなったは、件の「城郭放浪記」さんから、せっかくいろいろ調べたことを発信しないのは、残念だ、というコメントをいただいたことからでした。

◆しかしながら、私の場合、こうしたパソコンやITといった分野は一番苦手な部分で、そもそもブログをどうやって立ち上げていいのか、基本的なことが全く分からない中年オヤジです。

◆そうこうするうちに、東京にいる息子が帰省し、相談したところ、10分程度で立ち上げてくれました。そんな形で産声を上げたこのブログです。

 管理者である私自身が「ボケ」が多少入っている?ため、とても定期的に更新することや、洗練された内容でお届けできることは全く自信がありません。むしろ、近づいてきた私自身の「頭の老化」現象を少しでもやわらげるべく、山城探訪の感想や、その他日々感じたことを吐露したいと思っております。