2017年11月22日水曜日

法然寺(福岡県築上郡築上町東八田)

法然寺(ほうねんじ)

●所在地 福岡県築上郡築上町東八田
●開基 天仁元年(1108)
     西願法師:日峯山台蔵寺、天台宗
●中興 永正年間(1504~20)
     行信:含渓山念仏三昧院法然寺、浄土宗
●参拝日 2015年10月11日

◆解説(参考文献 諏訪勝則著『黒田官兵衛』中央公論新社、『黒田官兵衛をめぐる65の城』中井均・萩原さちこ・吉田龍司共著タツミムック等)

 法然寺は以前紹介した築上町の宇留津城から西へ約2キロほど向かった同町東八田に所在する寺院である。
 当院は戦国期秀吉による九州平定後、黒田官兵衛が新たな領地として宛行された際、暫く仮の館として使われたところである。
【写真左】法然寺
 左側に墓地があり、その奥に本堂が建立されている。

 なお、当院から凡そ600m程南に行くと城井川が流れ、この川を遡っていくと以前紹介した宇都宮氏(城井氏)の居城・城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)に繋がる。



 現地の説明板より

「法然寺黒田孝高について 

 天正15年(1587)豊臣秀吉によって九州は平定されたが、黒田孝高は論功行賞により豊前六郡領主に任ぜられた。孝高は同年7月より8月の間、法然寺を仮の館とした。”
【写真左】本堂













官兵衛豊前六郡の領有

 馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)の稿でも紹介しているように、秀吉による九州征伐が終わった後、官兵衛は豊前国を中心とした6郡を秀吉の宛行によって領有することになった。そしてこれらの地域を治めるため、馬ヶ岳城に入った。

 その後、馬ヶ岳城には嫡男長政に託し、官兵衛は当城より東方9キロ隔てた周防灘に近い法然寺を拠点とした。天正15年(1587)7月3日、官兵衛42歳のときである。
 この時の禄高は12万石といわれ、それまでの播磨における石高の2倍以上とされている。当然領地の積算根拠となるものが必要で、同時期に官兵衛は新領地内において検地を行っている。

 こうした作業をするためには、領内の西方にあった馬ヶ岳城より中心地に近く、さらに平坦地であったこの法然寺の方がやりやすかった点もあるのだろう。もっとも、当院にあったのは2か月ほどで、この直後佐々成政に与えられた肥後国において、一揆が勃発(隈本城(熊本県熊本市中央区古城町古城堀公園)参照)したためその鎮圧に当たることになるので、腰を落ち着けるような状態ではなかったと思われる。
【写真左】墓地・その1
 当院累代住職の墓の脇には宝篋印塔や五輪塔などが建立されている。長野氏もしくは官兵衛たちに関わる武将のものだろうか。



行信 

 ところで、法然寺を訪れた理由は、官兵衛が当院を仮の館としていたことからのものだったが、驚いたことに、法然寺を再興した僧・行信は、前稿でとりあげた豊前・長野城の城主長野氏の嫡孫のようだ。

現地の説明板より

“法然寺

 鳥羽天皇の御宇天仁元年(1108)西願法師の開基で、当時天台宗、日峯(にっぽう)山台蔵寺(だいぞうじ)と称した。永正年間(1504~20)に僧行信が入山し、荒廃した寺院を再興、含渓(がんけい)山念仏三昧院法然寺と改め、浄土宗となった。

 行信の祖父は、企救郡長野城主長野豊前守助氏で、その二子は早く仏門に入り、行念と称し、護念寺を開いた。行念の二子が行信である。

 行信は比叡山で修行後、法然寺を再興、晩年即身成仏の願により、地下に土倉をつくり、信者の嘆きの声を後に入定にはいった。七日七夜カネと読経の声が聞こえた。その音が絶えたのは12月5日であった。此の日を「行信忌」として、行信の仏徳を讃え、今日までおまつりは続けられている。後入定を記念して松が植えられ大木となったが枯死した。

  築城町
  築城町教育委員会“

【写真左】墓地・その2












 説明板の中で下線で示した護念寺とは、豊前・長野城の北麓に建立されている寺院で、管理人は参拝していないが、長野氏の菩提寺とされ、行念は護念寺の中興の祖といわれている。

 盛時は企救郡内をはじめ、京都郡・仲津郡・築城郡に数多くの末寺を持ったという。おそらく法然寺も護念寺の末寺の一つだったのかもしれない。
【写真左】墓地・その3



【写真左】周辺部・その1
 この辺りは標高15m前後で平坦地が多い。雨量が少ないためだろうか、溜め池が数多く点在している。
 法然寺の隣にも大きな溜池がある。
【写真左】周辺部・その2