2017年8月19日土曜日

片島城(岡山県倉敷市片島町)

片島城(かたしまじょう)

●所在地 岡山県倉敷市片島町
●形態 平城(海城)
●高さ H:26m
●築城期 室町時代
●築城者 二階堂政行
●城主 細川下野守等
●遺構 郭等
●備考 片島神社・妙任寺等
●登城日 2015年9月11日

◆解説
 片島城は現在の倉敷市片島町に所在していた平城(平山城又は海城)で、往古この付近は海域であったが、当時から片島山という小丘陵を持つ島であった。その後、高梁川から流れてくる土砂が堆積し、干潮時には干潟が広がるようになったという。
【写真左】妙見宮及び番神宮の鳥居
 片島の最高所で当時この場所が主郭であったと考えられる。






 片島城が築かれたのは南北朝期といわれ、地元の豪族二階堂氏の手によるもという。その後室町期に至ると、鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)の城主細川下野守の居城となったと伝えられている。
【写真左】法厳寺
 片島城跡には城跡としての遺構はほとんど残っておらず、従って城跡を示す標柱などは全くない。

 現在は、左の写真にある法厳寺が南麓に建立されているが、当院は江戸時代初期、真如大徳上人(~1660)の創建とされており、おそらくこの辺りが船着場であったと考えられる。

 そして、そこから階段を上がって北に進むと、片島神社があり、さらにそこから上に向かうとまとまった墓地が東半分を占め、その南側の最高所に冒頭で紹介した妙見宮が祀られている。

 また、この墓地は西側に妙任寺という寺があるので、当院の檀家寺と思われる。
 

細川下野守

 鴨山城の稿でも述べているが、片島城主として名の残る細川下野守とはおそらく、細川道董(みちただ)と思われる。もともと道董は四国伊予の川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)にあったが、叔父通政の名跡を継承、旧領の備中に移っている。道董が伊予から備中に移るきっかけとなったのが、毛利氏と盟約を結んだことからである。その後、次のような経緯を経て鴨山城に入城した。
  1. 永禄2年(1559)~同9年(1566) = 笠岡大島青佐山(H:249.4m)(笠岡と浅口両市の市境で南に水島灘を望む)に最初に入る。
  2. 永禄9年(1566)~天正3年(1575) = 鴨方六条院竜王山(H:289m)
  3. 天正3年(1575) = 鴨山城入城  
片島城は冒頭でも述べたように、現在では倉敷市の中に入っているが、当時の状況を考えると、最初に入った笠岡青佐山在城時代に、水島灘の海域が片島城周囲まで広がり、高梁川河口は片島城から北へ凡そ4キロほど上った船穂町水江(倉敷市)当たりではなかったかと推察される。

 こうしたことから、細川道董は伊予の川之江城時代から培ってきた水軍領主としての顔を持っており、毛利氏も水島灘(瀬戸内)の押さえとしての役割を期待していた可能性が高い。
【写真左】片島神社の参道を登る。
 法厳寺の境内の東側に階段があり、この階段を登っていくと、片島神社に繋がる。
【写真左】片島神社境内
 左側が片島神社本殿で、その奥には急傾斜にともなう法枠工の斜面が見える。

 想像だが、片島神社境内が中段部の腰郭の一つで、その上が主郭(本丸)だったように思われる。
【写真左】さらに上の傾斜地
 片島神社の脇を一旦左にまわり、坂道を登っていくと、もう一段上にも土木工事された傾斜面が見える。

 なお、途中には天満宮、祇園宮、先霊宮などと刻銘された石碑や祠が祀られている。
【写真左】途中に見えた墓地
 墓石そのものは新しいが、この場所も元は小規模な郭があったのではないかと思われる箇所。
【写真左】墓地から上を見上げる。
 この箇所も急傾斜地である。
【写真左】頂上部にある墓地
 登りきると、東端部側にある墓地に出た。

 墓地は東半分の殆どを占め、左奥には妙見宮などの本殿が祀られ、墓の間から妙任寺本堂の屋根が見える。
【写真左】番神宮・妙見宮の鳥居
 
【写真左】五輪塔
 妙見宮本殿の脇に建立されているもので、その脇には「當山歴代寺族之墓」と刻まれた墓石などが建立されている。
【写真左】妙任寺
 妙見宮などのある最高所より少し下がった北西端に建立されている寺院で、この辺りは当時北側を監視する郭などがあったのかもしれない。

【写真左】墓地側から南を俯瞰する。
 手前の屋根は片島神社の拝殿や本殿が見え、奥には片島城と同じく、中世には島嶼の姿をしていた大平山を中心とする丘陵地が遠望できる。 
【写真左】片島城から高梁川を見る。
 片島城のすぐ西隣りには高梁川の築堤が南北に走り、高梁川が流れている。

 奥に見える橋は国道2号線の玉島バイパス。