2017年2月14日火曜日

陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)

陶興房の墓(すえおきふさのはか)

●所在地 山口県周南市土井一丁目 建咲院)
●創建 文明14年(1482)
●開基 大悦薫童
●創建 陶興房
●指定 木像聖観世音菩薩像等
●参拝日 2017年1月22日

◆解説
 前稿の勝栄寺(山口県周南市中央町)から、北東へ凡そ、1.3キロ向かったところに陶興房が創建したといわれる建咲院がある。当院には創建者である陶興房の墓が眠っている。
【写真左】陶興房の墓
 手前の宝篋印塔で、周囲には歴代住職の墓が隣接している。








現地説明板・その1

“陶興房

 陶興房は、文武兼ね備わる温厚な武将として知られ、陶隆房(のち晴賢)の父にあたります。
 1482年(文明14)に大内館において、吉見信頼に刺客された父弘護と、母益田氏の冥福を祈るため、大悦薫童(だいえつくんどう)和尚を請して建咲院を建立しました。

 この寺号は、父の法名「昌龍院殿建忠考勲大居士」と、母の法名「龍豊寺殿咲山妙◇大姉」の頭文字である「建」と「咲」から得たものです。両親を思う至情がよくあらわれています。
 興房は禅宗に帰依し、1530年(享禄3)に剃髪して道麟(どうりん)と号し、1539年(天文8)4月18日に死去しました。他に徳地の八坂、上村にも社寺を造営しています。
 この宝篋印塔は、隅飾まで残存していますが、その上の法輪等は欠除しています。

   平成17年3月31日
     周南市教育委員会”



陶弘護(すえ ひろもり)

 興房の話に入る前に、先に彼の父であった弘護について述べたいと思う。
 弘護は康正元年(1455)10月13日、父を陶弘房、仁保盛郷の女を母として生まれている。この弘房は、一時同族で子がなかった右田家の弘篤が亡くなると、主君大内教弘の命によって、右田氏の後継ぎとなっている。しかし、その後実家(陶家)の実兄が亡くなると、再び陶家に戻り、陶氏の跡を継いでいる。
【写真左】長門・嘉年城










 さて、周防・若山城(山口県周防市福川)でも紹介したように、応仁の乱で主君大内政弘や、弘護の父弘房らが京へ上っている隙に、大内政弘の伯父である大内教幸(道頓)が赤間関(下関市)で兵を挙げると、陶氏の留守を預かっていた幼い弘護が、果敢に防戦し、長門・嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)に戦い、さらには豊前・馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)に教幸を追いこみ、自刃させた。時に文明3年(1471)12月26日のことである。(「大内道頓の乱」)
【写真左】豊前・馬ヶ岳城










 弘護の妻は益田兼堯(七尾城・その3(島根県益田市七尾)参照)の娘である。『益田家文書』に文明2年(1470)8月6日付で、陶弘護が益田兼堯・貞堯に忠誠を誓う、という記録が残っている。

 これは、主君大内政弘らが応仁の乱で京に上っているとき、弘護としては、当時西軍として手薄であった周防・長門の軍勢に協力を仰ぐため、石見益田氏への合力を頼んだことからだと思われる。

 翌年(文明3年)11月2日付で、弘護は益田貞兼(益田兼堯の嫡男で義兄弟)に誓書を与え、翌月の7日には、京にあった主君大内政弘に対し、石見の吉見・三隅・周布・小笠原諸氏が長門嘉年城包囲、益田貞兼が杉峠通路城・カケノ城・高津小城攻略、並びに自らが道頓攻略などを行ったことなど戦況報告をしている。
【写真左】石見益田・七尾城










 なお、弘護は同じころ主君大内政弘の命によって、筑前大宰府に少弐氏を攻めている。この理由も伯父教幸が、東軍(細川勝元)に通じていた少弐教朝・大友親繁に誘惑されていたことからである。

 ところで、このころ陶氏と益田氏との結びつきは、陶氏の主君であった大内氏よりも強かったことが窺われる。既述したように、弘護の妻は益田兼堯の娘で、兼堯の嫡男貞兼の妻は陶氏の女である。また、さらには後の益田藤兼の祖父・宗兼の室即ち梅林智惷は陶氏の出である。このこともあって、毛利元就に厳島で敗れた晴賢が最後まで頼ったのが益田藤兼である。
【写真左】荒滝山城










 文明14年(1482)5月27日、山口の大内邸築山館で大内政弘が催した饗応の席で、吉見信頼は突如刃を抜き、同席していた弘護を斬りつけ刺殺した。驚いた内藤弘矩(荒滝山城(山口県宇部市大字東吉部字荒滝)参照)はすぐさま信頼を討ち果たした。

 この吉見信頼と陶弘護のそれぞれの正室はいずれも益田兼堯の娘で、二人はいわば義兄弟に当たる。しかし、もともと応仁の乱のころ、信頼は東軍(細川方)に属し、文明2年に教幸が周防玖珂で弘護に追われたとき、津和野城主の信頼は教幸を匿ったことがある。そして教幸が亡くなると、文明10年に大内政弘に恭順を示している。

 大内邸における刃傷に至る直接の動機は、二人が座席の順位を争ったことからといわれているが、件の饗応を主催した大内政弘は、両者が不仲であったことを知りながら招いている。弘護殺害のあと、直ぐに内藤弘矩が信頼を殺害したのも大内氏による謀(はかりごと)ではなかったとも思える。もっともこの弘矩も後に大内義興の代になると、義興によって誅殺されてしまう。
【写真左】建咲院
 ご覧のように本堂は鉄筋コンクリート製の建物となっており、往時の姿は見られない。









陶興房(すえ おきふさ)

 上掲した系図にもあるように、弘護の子で、晴賢の父となった武将である。文明7年(1475)に生まれ、天文8年(1539)、享年64歳で亡くなっている。

 建咲院を創建したのが、父弘護が亡くなったその年、すなわち文明14年(1482)と現地の説明板に記されているが、興房が未だ7歳の幼年期のことになる。父が悲運の死を遂げたことから、できるだけ早く供養したいという思いは理解できるが、しかし、建咲院の建立日がこの年(文明14年)というのは、興房の年を考えると少し無理があるようにも思える。
【写真左】建咲院本堂



現地説明板より

“建咲院

 陶興房が両親の菩提を弔う目的で文明14年(1482)に建立した古刹である。

 永禄3年(1560)毛利元就は富田地方の一揆を討つために、勝栄寺に滞在したが、その際に、建咲院の隆室和尚に授戒されお礼に袈裟、尼師壇(にしだん)、血脉袋(けちみゃくぶくろ)、念珠、香合、水晶の玉を寄進した。これらの寺物の由来の古記録建咲考とともに、市の文化財として指定されている(昭和49年12月1日)。
 このほか徳山7代藩主毛利就馴(なりよし)お抱えの絵師朝倉南陵、震陵の釈迦三尊、十六羅漢図などは仏画としても美術品として貴重である。

 さらに昭和53年9月1日、市の文化財に指定された観音堂の木造聖観世音菩薩像は、桧材の寄木造りでもと茶木原の富田山浄宝寺の本尊である。鎌倉時代の特色が見られる古い仏像であり、古くから周防国三十三観音の第17番札所として崇敬されてきた。またこの浄宝寺は、奈良西大寺の末寺で周防国では国分寺(防府)の二ヶ寺であったと伝えられている。
   平成7年3月1日
       周南市教育委員会”


 さらにこの時期の動向を見てみると、主君であった大内政弘が亡くなり、義興が跡を継ぐにあたって、譜代の家臣であった内藤氏や、陶氏が絡んだ内紛などがあり、創建時期はこれらの騒動が落ち着いてからではないかとも考えらえれる。

 上掲の陶氏系図にも記しているように、興房は弘護の三男とされている。長男は武護(たけもり)、次男は興明である。

 弘護亡き後、武護は家督を継ぎ、大内義興に従って京都にあったが突如出奔し、出家したという。このため、弟の興明が家督を継いだが、しばらくして出家していた武護が突然帰国し、弟の興明を討ち取って家督を奪ったという。そして、大内邸における吉見信頼刃傷沙汰で名を挙げた内藤弘矩が権勢をふるっていたことから、武護は義興に讒言(弘矩が義興弟の隆弘を大内氏に擁立しようとしている)を行い、これを信じた義興は弘矩・弘和父子を誅殺したといわれている。
【写真左】観世音菩薩像が祀られている堂に向かう。
 建咲院の墓地は現在本堂北側の高台に集約されているが、近年大規模に整備されたようだ。興房の墓はこの高台をあがった先に建立されている。


 なお、武護を中心としたこれら陶氏の内訌や、内藤氏との確執など不明な点が多いため、上述した内容がどこまでが史実であったか確定してはいないようだ。

 さて、こうしたあとを受けて陶氏の家督を受け継いだ興房は、主君大内氏の重臣として義興から義隆の二代にわたって活躍することになる。

 興房は説明板にもあるように、文武兼ね備わる温厚な武将であったという。興房が最初にその能力を発揮したのが、明応4年(1495)、すなわち興房20歳のときだが、石見における長い間の益田氏と吉見氏との美濃地・黒谷地域を巡る領地紛争の終結に向けて、大内義興は興房を双方の和解折衝に当たらせた。そして、同年8月、益田・吉見両家が将来、将軍家と大内家に対し倦怠のないよう注意することなど三項目を挙げて誓文を交付している。
【写真左】陶興房の墓周辺
 墓地の西方奥に墓が祀られているが、その左側には歴代住職の墓が隣接している。





 興房の功績としてもっとも強調されることは、主君義興亡き後、大内家の安定を図り、若い義隆を強力に支えた点である。

 大永4年(1524)まで毛利氏は尼子氏と組み、大内方の安芸銀山城を攻撃していたが、翌5年の6月、安芸米山城主・天野興定が興房に服属したのを皮切りに、次第に毛利氏も尼子氏を離れ、大内方に着くようになった。こののち、興房は安芸・備後両国で度々尼子氏と激突、一進一退を繰り広げていく。
 
【写真右】大内義興の墓
 大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾








 義興が亡くなったのは享禄元年(1528)12月で、義隆はこのとき20歳を過ぎたばかりであった。義興の死によって、それまで大内氏に属していた安芸・備後・石見、さらには豊前・筑前両国の領主たちに動揺が走り、離反していく可能性も高かった。しかし、それを興房がこの難局を巧みに切り抜けていった。
【写真左】陶興房の墓













 さらに興房に先見の明があったのは、大永3年(1523)ごろ、毛利氏の家督争いで、異母兄弟であった相合(毛利)元綱が、宿老の坂広秀・渡辺勝らと密かに尼子氏と結び、陰謀を企てたが、元就によって成敗され、同5年6月に興房は毛利元就と誓書を交わし、それまで尼子方であった毛利氏を大内氏へと帰順させたことである。この間、興房が節目々で毛利氏(元就)と関わっていた。
【写真左】欠損した墓石の塊
 近くには、中小の墓石が欠損したものを一か所にまとめたものがある。
 興房時代の家臣のものかもしれない。