2018年2月4日日曜日

岐阜城(岐阜県岐阜市金華山)

岐阜城(ぎふじょう)

●所在地 岐阜県岐阜市金華山
●別名 稲葉山城、金華山城、井ノ口城
●高さ 336m(比高308m)
●築城期 建仁年間(1201~04)
●築城者 二階堂行政
●城主 二階堂行政、佐藤朝光、その他(下段参照)
●廃城年 慶長5年(1600)
●指定 国指定史跡
●遺構 郭・石垣・居館等
●登城日 2015年10月25日

◆解説
 切り立つ山の頂点に天守(模擬)を設け、眼下に広大な濃尾平野を俯瞰する岐阜城。改めて紹介する必要もないほどの有名な城郭であるが、管理人にとって長い間未登城のままだったこともあり、今回(2015年)やっとその念願がかなった。
【写真左】岐阜城遠望
 麓から見たもので、管理人のカメラはズームの能力に限界があるため、天守は豆粒ほどの大きさになっている。
 手前は織田信長像。



 岐阜城の歴史については、下段に示すように現地に詳しい内容が掲示されている。

現地の説明板・その1

“岐阜城の歴史(1) 二階堂行政~長井新左衛門尉

 13世紀のはじめ(建仁のころ)、鎌倉幕府の政所令(まんどころれい)二階堂行政が、ここに砦を構えたのが築城のはじめです。二階堂氏は鎌倉の二階堂に住み、氏を称えました。
 その一門は、関東から美濃・伊勢・薩摩などで豪族として栄えました。美濃の場合、関の新長谷寺(しんちょうこくじ)(吉田観音)を建てたのも二階堂氏です。

 その後、行政の子孫はここに居城し、姓を稲葉氏と改め稲葉山城といわれるようになりました。
 戦国時代の動乱の中で、土岐・斉藤氏の一族が稲葉氏の砦遺構を利用して、ふたたび城を築き、城下町もできました。大永5年(1525)、美濃国で内乱がおき、守護土岐氏と守護代斉藤氏の実権は、長井氏に移りました。稲葉山城も斉藤氏の一族が居城していましたが、長井氏に追放され、長井新左衛門尉の居城となりました。新左衛門尉は、斉藤道三のの父親といわれ、大永から享禄年間(1521~32)の史料に、名前がしばしばでてきます。”
【写真左】若武者の出迎え
 いつもの山城と違って、岐阜城ではこのように甲冑を身に付けた若武者が出迎えてくれた。

 10月の後半とはいうものの、この日は夏の様な陽射しで、特に冑を被った左の武将には、顔から滝のような大汗を掻きながらポーズをとっていただいた。ご苦労様です。





現地の説明板・その2

“岐阜城の歴史(2)  斉藤氏三代(道三・義龍・龍典)

 斉藤道三が、灯油売り商人として、京都から美濃国へ下り、守護土岐頼芸(よりなり)の知遇を得て、美濃一国を征服したことは、NHKの大河ドラマ「国盗り物語」などで有名です。
 しかし、最近発見された南近江の大名六角承禎(じょうてい)書状から、道三の前半生は父の長井新左衛門尉のことであり、後半生が道三の事績ということがわかりました。

 道三は稲葉山城を要害化し、山の西麓に居館を建て、百曲通(ひゃくまがりどおり)と七曲通(ななまがりどおり)に住人を集めて城下町をつくりました。
 また、御園・岩倉・中川原に市場を設けて、商取り引きを盛んにしました。
 天文23年(1554)、道三は突然隠退して家督を子の新九郎利尚(としひさ)(義龍(よしたつ))に譲りましたが、やがて父子の対立が生じ、弘治2年(1556)の戦いで討死しました。
【写真左】岐阜公園案内図
 岐阜城の東麓部には岐阜公園をはじめとする多くの史跡が点在している。
 この図では文字が小さいため分かりにくいが、左上に岐阜城があり、一般の観光客は東麓部にある金華山ロープウェーを使って向かう。

 因みに、このロープウェー乗場の近くには、現在発掘調査中の織田信長居館跡(後段参照)などがある。
 

 義龍は戦国大名として領国経営に力をそそぎましたが、道三死後、わずか6年で突然病死し、あとを幼い虎福丸(龍典)が継ぎました。
 しかし、斉藤氏の勢威は弱まり、織田信長の攻勢が盛んになる時に、永禄7年(1564)、家臣の竹中半兵衛重治らによって、稲葉山城が一時期占拠される事件がおきました。
 その後、竹中氏らは敗北し、稲葉山城は再び龍典の手に戻りましたが、この事件によって斉藤氏は一挙に衰退し、ついに永禄10年(1567)、稲葉山城は織田信長に攻略され、龍典は城を捨てて逃れました。

    岐阜市”
【写真左】山頂のロープウェー駅に着く
 本来ならば麓から足を使って登るべきだが、乗車中に見る稲葉山からの景色も見たかったので観光客と一緒にロープウェーに乗って着いた。

 写真は本丸に向かう最初の門だが、この駅の手前に硝煙蔵などがある。



歴代城主

 およそ400年という長い歴史を持つ城址であることから、当然歴代城主の数も多くなる。しかし他の城郭はそうした状況の場合、城主名が詳細に記録されているところは意外と少ない。この点岐阜城については、史料が余り消失することがなかったのか詳しく残っている。参考までに現在分かっている城主名を時系列で紹介しておきたい(参考 Wikipedia:等)。
【写真左】伝・一ノ門跡
 岐阜城の各出入口にはこうした巨石や石垣を使った門跡がある。手前の石は元々上に積まれていたようで、崩落してこの位置にあるようだ。




(1)二階堂氏・伊賀氏  (鎌倉~南北朝~室町初期)

 二階堂行政(二階堂氏祖)、伊賀朝光(二階堂行政の娘婿)、伊賀光宗(朝光次男)、稲葉光資(光宗弟)、二階堂行藤(二階堂行有の子)
【写真左】馬場跡
 現地にはご覧の様に敷石が張られ、歩きやすい通路のようになっているが、当時の馬場跡といわれている。
 規模 幅3間(5.4m)×長さ30間(54m)。一説では馬場でなく、矢場ともいわれる。



(2)美濃斉藤氏・家臣  (室町~戦国期)

 斉藤利永(稲葉山城再興)、斉藤妙椿(利永弟)、斉藤利藤(利永嫡男・妙椿養子)、斉藤利茂(利藤養子の息子)、長井新左衛門尉(長井長弘家臣:元京都妙覚寺僧)、斉藤道三(長井新左エ門城嫡男)、斉藤義龍(道三嫡男)、斉藤龍興(義龍嫡男)、安藤守就(龍興家臣)
【写真左】切通
 馬場跡を過ぎて進むと、途中で左手に尾根を断ち切った切通(堀切)が見える。
 写真左側が登ってきた一ノ門で、右に行くと次に紹介する二ノ門などが控える。



(3)織田氏及び豊臣家臣  (戦国期~安土桃山)

 織田信長織田信忠(信長嫡男)、斉藤利堯(斉藤道三の子・織田信忠家臣)、織田信孝(信長三男)、池田元助(池田恒興嫡男)、池田輝政(池田恒興次男)、豊臣秀勝(秀吉姉の子)、織田秀信(織田信忠嫡男)
【写真左】二ノ門
 この辺りから道は屈曲したラインとなり、二ノ門という虎口が出てくる。これを過ぎると、再び屈曲して「下台所」という郭段があり、そこから階段を登っていくと、「上台所」が控える。
 写真に見える白壁の塀は近代のもの。
【写真左】上台所へ向かう。
 この写真では見えてないが、中央の明るい箇所には天守が見えている。
【写真左】井戸跡
 台所(上台所)の脇から下に降りると、ご覧の井戸跡がある。
 井戸といってもこの付近の地形・地質から考えて、下に水源があるとは思えず、現地の説明板にもあるように、岩盤を四角形にくり抜いて造られ、雨水を貯めた貯水施設だったようだ。
【写真左】いよいよ天守が見えてきた。
【写真左】鷺山城及び黒野城を俯瞰する。
 坂道途中から左手に長良川を挟んで、北西方向には鷺山城と黒野城が確認できる。

 鷺山(さぎやま)城は、標高70m弱の丘城で、鎌倉時代に佐竹常陸介秀義が築城したといわれ、その後土岐氏が代々居城とし、戦国期に至り、土岐頼芸の重臣であった斉藤道三がのちに嫡男義龍と対立したとき、この城に拠った(下段の説明板参照)。

 黒野城は、秀吉の家臣加藤貞泰が築城し、家康の代までわずか16年間しか使用されなかった。
【写真左】天守
 鉄筋コンクリートによる3層4階建てで、昭和31年(1956)復元されている。
 斉藤氏や信長時代、どのようなものだったかわからないが、「天守」は池田輝政時代に改変されている。

 なお、岐阜城ではもう一つ「てんしゅ」と呼ばれていたところがある。それが麓の「天主」といわれたところで、信長時代の御殿跡を指す。下段の写真でも紹介しているように、現在も発掘調査が続けられている。
【写真左】二階堂行藤画像
 天守の中には岐阜城に関係した武将たちの資料などが展示されている。

現地説明板より

“二階堂氏
 鎌倉時代に入って、源頼朝い仕えて功績を挙げた二階堂山城守行政が、建仁年間(1201~1204)に稲葉山頂に砦を築いたとする説がある。ついでその子・佐藤伊賀守朝光、その二男・伊賀二郎左衛門光宗、光宗の弟・稲葉伊賀三郎左衛門尉光資まで代々居城したといい、正元の頃(13世紀半ば)に、二階堂行政の5代目に当たる二階堂出羽守行藤入道道雅が暫く居城したとされる(美濃明細記、美濃雑事記)。行藤の画像が関市の新長谷寺にある。” 

 なお、二階堂行藤は行有の子で、永仁元年(1293)に鎌倉幕府政所執事となり、正安3年(1301)出家し、同年東宮儲嗣問題解決のため、幕使として上洛している。


【写真左】斉藤妙椿
 
 現地説明板より

“斉藤妙椿(みようちん)
  応永18年(1411)~文明12年(1480)

 美濃守護代として、応仁文明の乱に守護土岐成頼在洛10年の間、その兵站の確保に努め隣境の諸強の侵入を許さず、よく留守役の大任を果たした。
 土岐氏は初め東軍細川氏に従ったが、後に西軍山名氏に味方した。東軍側に味方していた郡上郡大和村牧の東常縁の篠脇城を占領し、不破郡関ヶ原町今須の長江氏を滅ぼした。後日東常縁の和歌に感動して、篠脇城を東氏に返還した。文武両道をわきまえた立派な武将である。”
 
【写真左】斉藤道三像

現地説明板より

“斉藤道三公
  生年不詳~弘治2年(1556)
 斉藤道三は下剋上大名の典型であり、僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成りあがった人物だとされてきた。近年は古文書「六角承禎条書」によって、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、父・長井新左衛門尉との二代にわたるものとする説が有力になっている。
 道三は、天文年間(1532~54)には稲葉山城の修築を行い入城したとされる。また、のちに娘・濃姫を嫁がせ織田信長と姻戚となった。天文23年(1554)、家督を子・義龍へ譲り、常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居した。
 弘治2年(1556)、長良川の戦いで子・龍興に敗北し戦死。その首塚が道三塚として今に残る。”


【写真左】織田信忠像

現地説明板より

“織田信忠
  弘治3年(1557)~天正10年(1582)
 元亀3年(1572)正月に弟の信雄・信孝とともに岐阜城で元服して勘九郎信重と名乗り、7月には信長に従って浅井攻めに初陣した。天正2年(1574)、信忠と改めた。翌3年11月、信長から正式に家督と尾張・美濃を与えられ、岐阜を居城とする。同5年10月には松永久秀討伐の功績により、従三位左中将に叙任。これ以後、順次信忠は信長に代わって軍団を指揮することが多くなり、同7年の荒木村重討伐や、同10年の甲斐遠征には一月足らずで武田氏を討伐するなど、その手腕が大いに発揮された。本能寺の変時には、寄宿先の妙覚寺から二条新御所に立て籠もるが、明智光秀軍の猛攻に遭って自刃した。享年26歳。”
【写真左】織田秀信所用烏帽子形兜
 織田秀信は、織田信忠の嫡男で、信長の孫に当たる。幼名は三法師。

 有名な清州会議で信長後継を巡って、秀吉が肩車している絵が知られているが、その秀吉の肩に乗った幼児が三法師、後の織田秀信である。
 関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗戦後岐阜13万石は没収され、高野山へ送られた。しかしほどなくして下山し、死因は不明だが、奇しくも父と同じ26歳の若さで亡くなっている。
 結果的には岐阜城最期の城主となった。
【写真左】石垣
 天守台を降りて、帰りはさらに南に延びる犬走りのような道を進んだが、その途中の右上にご覧の石垣が見える。

 元々この付近の地形は谷を形成していたが、この石垣で両側を護岸し通路を構成している。
 また、この近くにも貯水用の井戸が残っている。
【写真左】信長居館跡・その1
 ロープウェーで下山後、西麓にある信長居館跡に向かう。
 現在も発掘調査中のため、中に入ることは出来ないが、外から状況を確認できる。
【写真左】信長居館跡・その2
 今のところ、信長居館跡は、2か所に分散し、A地区では大規模な庭園が、B地区では
茶室などがあったとされている。
【写真左】信長以前の居館
 斉藤氏時代のものといわれ、下層から石積の穴と階段が確認されている。

 地面の上に炭層があることから、信長が稲葉山城(岐阜城)を攻略した際、火災があったことを示すものとされる。  



秀吉墨俣城

 ところで、歴代城主として最も有名なのは、上掲した説明板にもあるように、斉藤道三と織田信長であるが、信長が岐阜城を落城させ、入城したのは、永禄10年(1567)8月15日といわれる。
【写真左】岐阜城から墨俣城方面を見る。
 右に見える長良川を下っていくと、次第に左にカーブし、大垣市の飛地の一つ墨俣町が西岸と接し、その北東端では犀川が合流する。

 墨俣城はちょうどその合流地点に築かれた平城である。
 伝承では秀吉が一夜で築いたといわれ、通称「墨俣一夜城」とも呼ばれている。


 
 入城に至るまでの経緯は他の資料などにも多く書かれているので詳細は省くが、岐阜城攻略の下準備をつくったのは信長の命を受けた木下秀吉(秀吉)である。永禄9年(1566)9月24日、斉藤龍興を落とすため、秀吉は同国(美濃)墨俣に城を築き、龍興を破った。

 この墨俣城というのは、岐阜城の麓を流れ長良川を凡そ12キロほど下った大垣市墨俣町墨俣にあった城で、現在その位置に墨俣一夜城歴史資料館という模擬天守が建っている。