2017年5月15日月曜日

長見山城(広島県安芸高田市甲田町下小原字内長見)

長見山城(ながみやまじょう)

●所在地 広島県安芸高田市甲田町下小原字内長見
●築城期 南北朝
●築城者 渡辺氏
●城主 渡辺次郎左衛門等
●指定 安芸高田市指定史跡
●高さ H:241m(比高46m)
●規模 500m×100m
●形態 山城
●遺構 郭・空堀等
●登城日 2014年11月14日

◆解説(参考文献『安芸高田お城拝見 山城60ベストガイド編者安芸高田市歴史民俗博物館、『日本城郭体系 第13巻』、『知将 毛利元就』池亨著等)
 中国地方最大の河川江の川は、別名中国太郎とも呼ばれ、多くの支流を持つが、そのうち広島県内に流れる主流を別名可愛川(えのかわ)とも呼んでいる。

 毛利氏居城の吉田郡山城の東麓を国道54号線と並行して流れている水系がそれに当たるが、この川はそこから少し下った位置となる甲田町下小原付近で、南側から流れてきた戸島川と合流する。この戸島川を2キロほど遡ると西岸に長い小丘陵の小山が見える。これが長見山城である。
【写真左】長見山城遠望
 長見山城の北東部内長見という地区から見たもの。
 北側から緩やかな棚田となって下がるが、この長見山城の小丘陵のみが独立して東西に伸びている。


現地碑文より

“長見山城址由緒
 延文2年中村澄晴築城、康暦元年孫元定高原庄に移る 後毛利家臣渡辺氏入城 大永四年城主次郎左衛門元就の意に逆い 郡山に於いて殺されその家族七人亦内長見山土居に於いて殺され 男太郎左衛門遁れて比婆山内氏に走り 後許されて飯城大いに軍功あり 其子飛騨守慶長五年毛利氏防長移封の際従い 之に移り余後廃墟と化す

昭和四十六年四月吉日
渡辺媛夫氏夫妻の特志により建立”

【写真左】北側の段
 正式な登城口が南側にあることを知らず、たまたま北側をウロウロしていたら登城できそうなコースが見つかったので、ここから向かった。

 少し広くなった段には墓地があった。近世のものだろう。
 小郭段のようだ。


渡辺氏

 吉田郡山城・その1(広島県安芸高田市吉田町吉田)でも述べたように、毛利氏が当地安芸高田に根を下ろしたのは建武3年(1336)、時親のときで、このとき随従してきたのが渡辺氏をはじめとする諸氏である(『高田郡史』)。
  1. 渡辺太郎左衛門勝
  2. 赤川美作守忠政
  3. 同筑前守義重
  4. 粟屋掃部親義
  5. 粟屋某
  6. 飯田左衛門佐師貞
  7. 市川源太兵衛武延
  8. 三戸孫三郎頼顕
  9. 三代久弥
  10. 児玉某
  11. 佐藤某
  12. 山縣某
  13. 多田中務大夫義政
  14. 高 右衛門尉師次
  15. 横見太郎右衛門某
 なお、これら随従者の家筋については諸説があり、市川系譜、反古袋巻末付紙には渡辺氏の名が見えるが、反古袋並びに江家秘録集には渡辺氏の名が見えない。
【写真左】郭段
 北側の斜面を歩きやすいコースをみつけながら登っていくと、ご覧の段差のついた郭群がでてきた。

 長見山城は尾根幅がせまいこともあって、郭の幅も殆ど尾根幅いっぱいに使われている箇所が多い。



 さて、戦国期に至り元就が毛利氏の家督を相続したのは、大永3年(1523)の8月である。幸松丸の死去に伴い、郡山城内において急きょ宿老間で次の後継者を決める合議が行われ、その間元就は多治比猿掛城で結果を待っていた。
【写真左】南側から回り込む。
 右上が本丸天端にあたり、南側の帯郭付近から上を目指しながら回り込む。






 ところで、この合議の前、元就を推薦し本人の同意を促す役目をしていたのが、長見山城を本拠としていた渡辺勝などである。

 最終的に元就が毛利氏の家督を相続し、吉田郡山城の城主となるが、元就は、これら宿老たちに対し、連署による要請状を書かせている。元就らしい慎重さである。この要請状に名を連ねた宿老の面々は次の15人である。

(1)一族
  1. 志道広良
  2. 福原広俊
  3. 桂 元澄
  4. 坂 広秀 ⇒ のちに殺害される
(2)譜代家臣
  1. 渡辺 勝  ⇒ のちに郡山城にて殺害される
  2. 粟屋元秀
  3. 赤川元助
  4. 赤川就秀
  5. 飯田元親
(3)国人領主
  1. 中村元明
  2. 井上就在
  3. 井上元盛 元就の多治比・猿掛城時代、領地を奪い取っている。
  4. 井上元貞
  5. 井上元吉
  6. 井上元兼
※ 井上一族は後の天文19年(1550)元就によって誅滅される(阿賀城(広島県安芸高田市八千代町下根)参照)。
【写真左】本丸・その1
 この箇所のみ綺麗に維持されている。中央部には観音堂が祀られている。
 なお本丸は東西へ凡そ30m程伸びた部分と、西側で尾根の形状に合わせ少し南側に折れた部分とで構成されている。


渡辺・坂一派の誅滅

 元就が毛利氏の家督を相続して間もなく、連署状に名を連ねていた渡辺勝・坂広秀らが実は、元就とは別に元就の異母弟・相合元綱を擁立しようと画策していたことが判明した。その裏では尼子氏の重臣亀井秀綱と二人が気脈を通じていたといわれる。これを知った元就は二人を含む一派の誅滅を断行した。
 このことについては、現地長見山城の麓にある「渡邊(わたなべ)七人塚」にその経緯が掲示されている。
【写真左】長見山城の石碑
 観音堂の前には石碑が建立されている。

 寄付者(寄贈者)名として、5人の渡辺氏の名が筆耕されている。末孫の方々のものだろう。
 昭和43年とあるから半世紀近く前に建立されている。


“渡邊七人塚

 毛利元就の本家相続後、元就の弟の相合元綱を擁立しようとした坂・渡邊一派は、密かに尼子の老臣亀井秀綱などと通じて機をみて元就を除こうとした。元就は早くもこの陰謀を探知し、元綱を殺すとともに、その一味を自殺させ、渡邊長門守勝については、郡山城において殺害。内長見に居住していた渡邊氏一門7人を殺害させた。
 七人塚は、その一門を葬ったといい、石塔4基、桜1本、榎2本を植えて墓標とした。
【写真左】「渡邊七人塚」の標識
 この写真は、10年前の2007年7月に探訪したもので、現在もこの標識があるのか分からないが、件の塚は私有地にあるため、所有者の方に許可を得て参拝した。


 このとき、渡邊勝の長男虎市は、家臣に守られ備後山内家に保護され、成人の後許されて毛利家に帰参し、渡邊太郎左衛門通(とおる)と名乗り家名を再興した。
 現在は石塔1基が移設され、5基となっている。それぞれの墓標の詳細については不明。また、桜・榎は現在枯死している。
    甲田町教育委員会”
【写真左】「渡邊七人塚」
 説明板にもあるように、現在は2基無くなり、5基となっている。いずれも小さな五輪塔形式のもの。

 武功を挙げた武将なら立派な墓なのだろうが、元就を裏切った者たちなので、誅殺されたあと、地元内長屋の民が慮ってあえて目立たない墓石として建立したのだろう。


遺構等

 比高40m余りの丘城であることもあって、特筆されるめぼしい遺構はあまりない。長見山城は中央部に最高所の本丸(長見山観音堂を祀る)を置き、ここから少し離れた尾根伝いの西側に3,4段の郭が構成され、東側は本丸東端部に小規模な堀切を介して、細長い郭状の平坦地を構成している。

 礎石の有無は不明だが、形態を考えると尾根筋上に何棟かの建物が建つ館があったものと推察される。
【写真左】本丸・その2
 本丸部分は綺麗に保持されている。定期的に清掃作業がされているのだろう。
【写真左】帯郭
 本丸の東西には小規模な腰郭や帯郭などが付随している。

 このあと、尾根伝いに西側に向かう。
【写真左】薬研堀か
 本丸の西側へ尾根伝いに凡そ70m程向かうと、底面がフラットになった小規模な薬研堀のような堀切がある。

 この左側には切崖状の段が控えている。
【写真左】切崖
 高低差は5,6m程度のものだが、人為的に手が加えられた切崖がある。ここを先ず登ってみる。
【写真左】土塁
 登ると、東端部側には幅1m、長さ10mほどの土塁が設置されている。
【写真左】郭段
 土塁が設置されている郭(約20m四方)を頂部とし、さらに西に向かって3,4段の郭が連続する。
【写真左】石碑
 変わった書体で書かれている。読めない。
  このあと、再び本丸方向へ戻り、東側の尾根に向かう。
【写真左】竪堀か
 本丸側郭群の東端部北側斜面に見えたもので、かなり崩れているため残存度はいま一つだが、深さは十分にある。
【写真左】東郭群
 東に進むと次第に尾根は狭まり、先端部は突起形状となる。

 写真はその尾根北側を見たもので、たまたまこの面のみが伐採されていて、見晴らしはすこぶる良かった。
【写真左】長見山城登山口
 探索していたら、南側にご覧の標柱がみつかった。本来はここから登城すべきだったが、この場所が分かりにくい。
【写真左】山田川
 長見山城の南麓を流れる川で、戸島川と合流している。右側が長見山城。

 なお、北側にも小川が流れており、両川とも濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】遠望
 今度は南側から東端部方面を見たもの。南麓部には数軒の民家が建っている。